二宮ゆかりの画家 連載第10回 二見利節(としとき)・その生涯
復員後
昭和二十一年十月、利節は比較的恵まれた捕虜生活に別れを告げて復員、下船と同時に無一物になった。全国民が敗戦によりぼう然として、放心状態になっていた折、それに劣らぬ状況で日時を過ごした。妻芳枝の郷里福岡の生活は家族の暖かい環境の中に、約一年近く過ごし、その間、長男茂の誕生を得た。
昭和二十三年四月、画友の原精一とともに国画会に入会した。これ以後平塚市出身の先輩画家である鳥海青児とも親交を得るに至った。昭和二十四年四月第二十三回国画会展に、「アメリカアカシヤ」「牡丹」「沖縄風景」が出品された。
昭和二十五年四月第二十四回国画会展に、「裸婦」を出品。昭和二十七年四月第二十六回国画会展に「上通点A」「上通点B」を出品。昭和二十八年四月第二十七回国画会展に、「愛の駒」「愛の玉」を出品。昭和二十九年四月第二十八回国画会展に、「M子ちゃん」「T子ちゃん」「H子ちゃん」出品。昭和三十年四月第二十九回国画会展に「静物」「タンポポ」を出品。また七月には東京大丸において「二見利節素描展」が開催され、また十二月には大磯町立図書館において「二見利節素描展」が行われた。
さて利節は出展前には四日も五日も、徹夜で絵を描き続けることが常であった。ときには精神に異常を呈して、入院騒ぎになったことが二回ほどある。昭和二十六年に、出展していないのは、これによるものではないかと思う。
アトリエ火災
昭和三十一年三月初旬だったか。例の物置小屋のアトリエを訪ねると相変わらず絵を描いていた。突然西側の屋根の下を指さして、「あれを見ろ。暖かいぞ」「何だあれは鶏小屋みたい」二メートルぐらいの長方形の箱が、毛布様のものにくるまって取り付けてあった。「あの中に炬燵を入れておくと、とてもいいよ」と「何であがるか」「はしご」と利節の答え。なるほど小さな梯子が立て掛けてあった。
三月十六日利節が外で焚火をしていると、アトリエから煙が出始めている。急いで戸を開けると、いっぺんに火を吹いたという。麦わら屋根だからたまらない。みるみるうちに火は燃え盛った。ちょうど隣組の消火訓練日で消火器具がそのままになっていたため、近所の人たちによって早期消火ができた。大事な絵がたくさんあった。取り出す暇もあった。しかし近所の家に延焼しては申し訳ないとのことが先になって絵を取り出すことはやめたという。大事にしていた朝鮮の壺も消火の水がかかって細かく飛び散る様子が彼の目に映ったと語っていた。こうして何年もかかって蓄えてきた大事な絵もほとんどが焼失してしまったのである。
※「二宮町近代史話」より引用
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