明治150年記念連載 大磯歴史語り 第16回「西園寺公望【3】」文・武井久江
明治15年(1882)3月4日、伊藤博文と憲法調査のため欧州に渡り、その時にパリ大学での勉強が活かされ、伊藤との関係も親密になりました。明治18年2月にはオーストリア特命全権公使に任命され、ヨーロッパ事情に精通した法制官僚として優遇されるようになります。さらに明治20年にはドイツ兼ベルギー公使としてベルリンにも赴任します。そして、第2次伊藤内閣の文部大臣・外務大臣を経て、明治33年(1900)10月に成立した第4次伊藤内閣の枢密院議長及び、総理大臣臨時代理を命じられました。(この前年に、大磯に別邸を構えます、その時暮らしたのが小林菊子・新・親子です)
明治36年には伊藤の跡をうけて政友会総裁になり、明治39年1月、桂太郎に代わり総理に就任します。この時代を桂園時代と言い、11代、13代、15代と桂が就任、この間の12代、14代と西園寺が務めます。12年間にわたり交互に総理就任、「阿吽」の呼吸で政権交代が行われました。ここで西園寺の業績ですが、明治39年(1906)3月16日に全国主要私鉄17社の国有化が決まりました。この頃から、リウマチを患ったり盲腸炎をこじらせたりですっかり病弱になり、大正6年に静岡の興津「坐漁荘」別邸を事実上の本拠地とし、東京本邸(政治関係)、京都の別邸「清風荘」(春と秋の気候の良い季節のみ)や夏は御殿場別邸との間を定期的に行き来し、興津と同じように御殿場の住居を作らせたそうです。現在興津はレプリカ(本邸は明治村にあります)ですが、この2階の床の間は大磯プリンスホテルの敷地にあった「諏訪の松」が枯れ、その木が加工され興津の「坐漁荘」の2階の床の間になっています。大磯から運ばれた様子が写真を含め、当時を思い起こさせます。是非いらして下さい、公開されています。正妻をめとらなかった西園寺は最初の子に養子を迎え、西園寺八郎この人が、パリの講和会議に私設秘書として西園寺を支えました。次回は元老についての西園寺を語ります。(敬称略)
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