大磯歴史語り 〈財閥編〉
今回から、岩崎弥之助です。大磯との関わりは弥之助から始まりました。明治23年に土地を購入しています。それが大磯駅前の聖ステパノ学園や、エリザベスサンダースホームが建っている場所です。母・美和の老いを養うために購入しました。何故大磯に別荘をと思いましたが、妻・早苗の父が、土佐の吉田東洋の甥で、後藤象二郎です。後藤は現在の大磯高校の側に明治20年早々に別荘を構えていますので、そんなご縁があったのかもしれません。
弥之助は、嘉永4年(1851)1月8日、岩崎弥次郎・美和夫婦の次男として、現・高知県安芸市に生まれました。岩崎家は地下浪人に没落していましたので、本来は武士の教育を受けることは出来ませんが、弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していましたので、慶応3年(1867)、満16歳の時に土佐藩校の致道館に入学します。明治2年(1869)に弥太郎が大阪商会に赴任する時に、弥之助も大阪に渡り、重野安繹(師の研究を助けるために始めた古典籍収集は後の静嘉堂文庫に繋がり、重野を文庫長としている)の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学びます。明治5年、アメリカに留学、翌年の11月に父・弥次郎が亡くなったことで、弥太郎から留学を中断して帰国するように懇願されました。三菱商会に入社。明治7年11月17日に、後藤象二郎の長女・早苗と、弥太郎夫婦の仲人で結婚。弥太郎の事業を助け、弥太郎が亡くなってからは、2代目総師として尽力しました。三菱の中核事業となる造船業は、海運業に付随する船舶修理を起源とし、当時長崎には幕府が設立した造船所がありましたが、政府は民間に払い下げることを決定。長崎造船所は三菱に貸与され明治20年に払い下げられ、弥之助はそれまで船舶修理中心だった長崎造船所に積極的に設備投資を行い世界的な水準を誇る造船所に成長させました。前回「所期奉公」のお話をしましたが、弥太郎は武士の心にこだわりました。三菱の飛躍的発展のきっかけになった明治10年の西南戦争は、特権的役割を終えた武士たちの誇りと意地を掛けた戦いでした。負け組の無念の思いは勝ち組に心の痛みとして引き継がれ、勝ち組の軍事輸送を担った弥太郎ですが、生涯を貫いたものは「義」と「国のため」を旨とした「明治の武士道」だったと言えます。その精神は「所期奉公」の精神として代々引き継がれていき、期するところは国のため、社会のため、これこそが三菱の心だと。でも疲れると、大磯に来て船に乗り、釣りを楽しんだそうです。(敬称略)
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