大磯歴史語り〈財閥編〉 第31回「三井八郎右衛門高棟【10】」文・武井久江
前回、如庵の解体運搬のお話しをして、今回から三井守之助・養之助を語るつもりでしたが、城山荘の事もお話ししないといけませんので、今回は城山荘のその後をお話しして次回の今年最後に繋げます。城山荘本館やそれ以外の作陶のための陶器細工所潜庵や窯場も設けていましたし、北側には大芝生を配した大庭園・大雄殿・法雲堂・洗心寮など、多くのお堂や門・橋など沢山の物がありました。現在は、ひかりの広場やふれあいの広場として皆様に親しまれていますが、今は土台のみ残っています。その全てが解体移築されて現在の城山公園があります。城山荘の本館各室の建築は全国の有名な28社のお寺から膨大な量が集められました。東京の浅草寺、奈良の薬師寺・当麻寺・東大寺・春日神社・談山神社、さらに島根県は万福寺(別名・雪舟寺)、京都は今宮神社・大徳寺・東福寺、大阪は葛井寺・教興寺(別名・高安寺)、大磯は寺坂にあります王福寺、まだまだあります。詳しくは、大磯町郷土資料館発行「大磯別邸・城山荘-三井高棟が遺したもの-」に掲載されています。
何故、高棟は全国から古材を集めたのでしょうか? 高棟は京都で育ちました。京都には古から沢山の神社仏閣があり、その維持管理の大変さを実感していたのではないでしょうか? さらに建築に造詣が深かった高棟は、古いものが壊されたり朽ちていくのを偲びなく思っていたのでしょうか? さらに宗教的な事から、薬師寺の橋本凝胤管主の講義を受けて師と仰いでいたり、師は高棟の構想を理解していたようです。東京の浅草寺は三井家の宗旨と同じ天台宗で、浅草寺の観音堂が震災で被害に遭って解体修理された後、不要になった正面の階段や内陣の天井が城山荘に移築され、床や家具に至るまで古材が使われて、頂いた古材は捨てられたものが無かったそうです。そしてまたその建物を解体しなければならなくなったというのは、辛い事です。昭和45年に城山荘は名古屋鉄道株式会社の所有となり、先に如庵の移築が始まり、2年後に移築が完了。この年に城山荘本館の解体が始まりました。2年近くかかり京都に古材が運ばれ、前回にお話しした「豊山窯」は城山窯が解体されて出来たものです。お話が前後してしまいましたが、滋賀県大津市には大雄殿・洗心寮・法雲堂が移築されました。名古屋鉄道に売却されてから平成2年に県立城山公園になりました。現在の無駄を出さない先駆者だったのですね。(敬称略)
|
|
|
|
|
|