二宮ゆかりの画家 連載第20回 二見利節(としとき)・その生涯
利節の死去と秘宝
利節の親友の画家の一人に長谷川利行がいた。優秀な画家であったが年若くして不幸のうちに死去した。しばらくの間、彼が遺骨を預っていたことがある。その利行の遺作展が、三越で開催された。二月八日無断で病院を抜け出して三越に出かけた。その結果病状が悪化して三月二十七日、小田原市立病院で死亡した。六十五歳であった。
利節は小田原の市立病院に入院するとき妹のツルに厳重に荷造られたバッグを預けた。これは決して開けてはならない。非常事態が起こったときは必ず持ち出してほしいと言いおいて行ったと聞いている。利節の葬儀が終わって数日後に、弟の龍男と芳枝とが来訪された。利節の預けたバッグの件で妹との話合にぜひ立ち会ってくれとのことであった。「意見は申しませんが、立ち会うだけでしたらけっこうです」と返事してお別れした。
翌日午後電話があって話しがついたとのことであった。その後、このバッグがどこにあるのか、このことについて知っている人たちの間でいろいろと話題になっていた。ある人は妹のところにまだあるというし、またある人は平塚市のほうに行っているとか。しかし、平塚博物館で昭和五十二年十月二十日から十一月二十日まで行われた「二見利節展」で森田英之のルーフィング画の説明文に次のように書かれている。
昭和三十八年クレヨン画による執拗なまでの追求は、ここで画面基材を黒いタールを浸みこませた屋根材のルーフィングと呼ばれる紙に求められ、この巻物のルーフィングに秘かに二見芸術の真髄が定着されるのである。
数メートルから数十メートルもある黒い画面を幾つにも区切って、クレヨンを塗りつぶしたその画面は誰もが一度も見たこともない不思議な世界が開け、二見利節の到達し得た世界がある。この巻物は全十巻制作され、二見が生前最も大切にした作品が、骨法ものとして死の直前まで病室の枕元に置いたものである。全く先に展開されたピカソやクレーなどの残滓はみじんも見られず、清雅な浄土を連想させる。これは二見が渡欧しバルセロナのピカソ美術館で深くピカソ芸術に対面し、いっそう鮮明になるのであるが、ピカソ芸術は西洋の頂点すなわち帰納でありとし、東洋には演繹があり、その演繹を天理の法と呼びそれによって成されたもの、在らすものがすなわち二見芸術であると確信するのである。天理の法を具備し在らすことによって成るのである。
このようにみると門外不出、何人の目にも触れさせぬと堅く荷造られていた利節の宝は既に開かれていたのである。 (つづく)
※「二宮町近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
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