明治150年記念連載 大磯歴史語り 第38回「吉田茂【5】」文・武井久江
初めての任地は満州の奉天でした。帰国後、ロンドン赴任の辞令が出ますが何故か留め置きになりました。茂にとって人生最大の人との出会いがあります。縁談です。その事で外務省が配慮したと言われています。後ろ盾を失くした茂を心配して、実父の竹内綱が動きました。お相手は明治維新で活躍した大久保利通の次男・牧野伸顕の娘・雪子です。この結婚で、華やかな政財界の一族になった訳です。新婚生活は、新たな赴任地のロンドンで送り、後ローマのイタリヤ大使館に移ります。当時、外務省には中国・総領事館勤務は裏街道、欧米の在外公館勤務が表街道と、この基準で行くと茂は表街道を走っていたことになります。ところがこの後、満州の安東領事を4年間務めることになります。それは、初代朝鮮総督の寺内正毅に見込まれたためです(彼も大磯に別荘をもち、今現在はご子孫がお住まいです)。茂は、外務省と寺内総督との連絡役となり、活躍しました。寺内が次期総理に推挙され朝鮮を去る時に、茂にも帰朝命令が出た時の一言は、皆様も聞いたことがあるかもしれませんが、寺内が茂に総理秘書官になるように求めた時に「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」と言って断った話は有名です。ここから外交官として、更なる任地への赴任がありますが、トラブルというか、例えば「対華21か条要求」を批判したという理由で任地の取り消しがあったり、そのために本省内で一番の閑職・文章課長心得になる事もありました。そんな折、大正7年(1918)12月に岳父である牧野伸顕がパリ講和会議の全権を務め、その随行で約10ヶ月のパリ暮らしの後、ようやく表街道のロンドン駐英大使館勤務となりました。この2度目のロンドン勤務が後年話題になった、茂の英国紳士風のおしゃれに磨きがかかります。(敬称略)
お知らせです。2月24日(月)21時〜23時24分にテレビ東京で「アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂」の放送があります。
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