大磯歴史語り〈財閥編〉 第29回「三井八郎右衛門高棟【8】」文・武井久江
高棟が終の棲家にした現・城山公園は、歴史は古く室町時代には小磯城が築かれ文明9年(1477)に、この城に立て籠もる長尾景春の被官・越後五郎四郎を山吹伝説で知られる太田道灌が破ったという記録が残されています。明治31年(1898)、高棟が別荘を構えるようになったため、これ以後次第に庭園として整備されるようになりました。全国の有名な古寺社などの古材を用いて作られた「城山荘」や織田信長の実弟で、茶人として高名な織田有楽斎が建てた茶室「如庵」は、昭和45年までこの地にありました。高棟はどんな思いでこの地に「城山荘」を建てたのでしょうか?
関東大震災が大磯の町にも甚大な被害を与えました。三井邸も倒壊して、昭和3年5月に修繕が完了しました。冬季間、暖かい処で過ごしたいと大磯に本格的に城山荘本館を建てたのは、昭和8年に高棟が合名会社社長を退いてからです。その時、建築を依頼したのが息子・高公の学習院の時の同級生・久米権九郎でした。関東大震災で大磯の別邸が倒壊、久米は兄・民十郎を関東大震災で亡くしていました。その事から2人は、地震に強い建物を建てたいとの思いが一致していました。久米は兄の死から耐震強化の建物を勉強するためドイツの大学に留学し、友人・高公の依頼で城山荘を建てることになり、これを契機に耐震木構造の研究に入りました。卒業論文で日本の木造建築と西洋型合理性を融合させた「久米式耐震木構造」を確立しました。高棟は3年ほど前から、古来全く類例なき古材館を考えていました。これを「親戚知人に披露しましたが富力をもってその豪奢を披露する事とは、正反対の諸国古社寺の改造等にて不用と為りたる木材を寄せ集め、丹念にこれを補綴(ほてつ)して、それぞれの建築の部分に当て嵌め、驚くべき巧思妙想(こうしみょうそう)をもって、廃物利用を盡(つく)したもので、丹精と工夫のコンビより生まれ出でたる不思議な建造物で、高棟公は、惨憺たる苦心を費やし、一木片と言えどもことごとく由緒あるもので、無駄にしたくはなかった」と、昭和10年12月3日〜5日の都の新聞・茶道往来の城山荘古材館(上)に書かれていました。いずれも由緒ある古材(例えば薬師寺・東大寺・春日神社・浅草寺等)を無駄にしたくなかったのですね。凄い事ですね。ただ残念ですが、今は蔵以外の建物は一切ありません。でも解体した時に再利用されているものもあり、素晴らしい事です。では次回。(敬称略)
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