1995年1月17日早朝に兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災の発生から今日で丸20年。6434人の尊い命を奪う甚大な被害を受けた被災地には、全国から支援に駆け付けた多数のボランティアらの姿があった。小田原市消防本部の高橋康三さん(46)も、消防士として現地で活動した一人だ。
大震災発生の翌日。当直明けで非番だった高橋さん宅の電話が鳴ったのは、勤務先から帰宅してまもなくのこと。上司から被災地への出動要請だった。テレビで目の当たりにした被災地の惨状。当時、消防士として8年目の若手だった高橋さんは強い使命感を抱き、その夜には4人の同僚とともに消防車両で神戸へ向かった。
被災地に近づくにつれ、その混乱ぶりを表すかのように激しさを増す交通渋滞。横倒しになった高速道路の高架橋の脇も通過し、改めて被害の深刻さを実感させられた。
神戸市兵庫区に到着したのは19日の午前5時40分頃。地震発生から丸2日が経過していたが、まだ赤々と炎を上げるビルもあった。これは、被災地で消防士の数が不足し、人命に影響がない現場については消火活動を後回しにせざるを得ない状況にあったからだという。生存者のいる可能性が高いところから優先的に救出作業を行うのは、家屋の倒壊現場でも同様だった。
高橋さんが所属する部隊の任務は、がれきに埋もれた人を救うこと。現地の消防の指示で、神奈川県西部から派遣された消防士とグループになり活動した。
都市直下型地震で、全壊半壊した家屋は約25万棟。1階が完全に押しつぶされた5階建マンションには、2階部分の床に削岩機で穴を開けてようやく中に入った。だが、その寝室で目にしたのは、夫が妻をかばうように亡くなっていた夫婦の姿。「きっと、逃げる時間もなかったのでしょう」
滞在した5日間で発見した生存者はゼロ。結果的に、遺体収容が仕事となった。「消防士として日常的に訓練を積んでいても、壮絶な状況を目の当たりにしながらの作業は心の負担が大きく、精神的強さを維持するのは難しかった」
避難食や生活用水、避難用具など、いざという時のための物的備えが大切なのは言うまでもない。そのうえで、「いかに気持ちを強く持ち続けられるかが鍵。そのためには組織的な助け合いが必要。だからこそ、普段からの近所づきあいは大事だと思う」と、経験から得た教訓を語った。