三浦の散歩道 第20回 みうら観光ボランティアガイド協会
階段を七十七段上ると城ヶ島大橋の袂(たもと)で、料金所の近くに出ることができます。すぐ、横に大椿寺山と呼ばれ、お寺の裏てに当たる所があります。この大橋をつくる折りに一部を削ったところ、馬と人の埴輪が出土したと言われています。五世紀ごろの古墳であったとのことで、馬の埴輪は県立博物館に展示されていると聞いています。
大橋は昭和三十五年に架けられ、当時の金額で七億円の工費であったとのことで、現在でも車は渡橋料を支払っています。よく、城ヶ島は「文学の島」とも呼称されますが、この橋の長さも俳句に因んで、五七五メートルです。おもしろいですね。たしかに島の中には歌碑や句碑が幾つかあります。大橋が出来たと同じ年に造られた県立公園内だけでも句碑が二基、歌碑が一基あります。
先ず、公園の駐車場の右側には松本たかしの句碑、『松虫にささで寝(ぬ)る戸や城ヶ島』があります。かつて橋が架かってなかった頃は島の家々では夜に戸を閉めないで寝ながら虫の声を聴いていたのでしょうか。おおらかな時でしたね。松本たかし氏については、以前本瑞寺を歩いた中で紹介をしています。
さらに、公園内に入って第一展望台の右側に角川源義の句碑『火の島へ一帆目指す芋の露』があります。ここに言う「火の島」は伊豆大島のことです。「芋の露」は里芋の葉に溜った露のことです。昔、この溜り露で墨を擦り、字を書くと上手になると言われたことがありました。
第二展望台の近くには芝生の広場があります。遠く房総半島が望見できる場所でもあります。その広場の北側に宮柊二の歌碑があります。『先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母(きらら)のごとく』の歌が大きな小松石に刻されています。ここで言う「先生」は北原白秋のことです。『城ヶ島の雨』という唄の中に「舟はゆくゆく通り矢のはなを」の一節があります。その通り矢の端(はな)の小波がキラキラと光り輝いているさまを取り上げたのでしょう。因みに、白秋先生の三崎を詠んだ歌集が『雲母集(きららしゅう)』という、先生にとっては『桐の花』に次ぐ、第二の歌集でもあります。
昭和六十年五月、この歌碑を宮氏が自ら除幕されている写真が「白秋記念館」の二階に展示されています。宮氏は北原白秋の高弟で秘書のような役目をされていたのですが、白秋が亡くなられた昭和十七年十一月の時は戦地に居たのでした。十八年十月に戻るとすぐ見桃寺へと出向き師の歌碑に参ったということです。
先生のうたい給うた「通り矢のはな」は大正十二年の震災や埋め立てのため、かつて「矢を通した海の流れ」も今はなく、「通り矢」行きのバスが往来する姿に変じてしまっています。北原白秋が住んで居たという、異人館も現在では公園に変じてしまっています。
『城ヶ島の雨』は大正二(一九一三)年に作られたもので、来年で百年の年月が経っています。ただ、遊ヶ崎に建つ詩碑は昭和二十四(一九四九)年七月十日に除幕されたものです。今年も来たる七月十日に詩碑の前で「碑前祭」が三崎白秋会と城ヶ島観光協会の主催で行われ、碑前に献花をするなどの式典が行われます。
つづく
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