北条湾に注いでいる狭塚川は宮川町と向ヶ崎町の間を抜けて流れています。さらに遡っていきますと、岬陽町の東側の谷戸へ達します。川の東側は宮川町です。岬陽児童公園近くの階段を下って行きますと川に突き当たります。
川に沿った宮川町に「えびっこ広場」と書かれた石柱のある広場があります。そこには昭和57年、市長が記したとあります。現在は何もない広場になっていて、市はこの地を売りに出しているようです。川はさらに原町へ続いていますが、東に「名湖山」という高台の下を流れる辺りは「調整池」となっているためか、谷間のようで木々が茂り、山奥に見る風景で、自然を感じさせます。
川を右に見ながら坂を登る感覚で、「三浦市、三崎学校給食共同調理場」の前にやって来ました。裏手に回って畑の中の道に行ってみますと、左右の土手に蒲公英(たんぽぽ)が咲いています。しばらくすると遠くに岩堂山が見えて来ました。しかし、狭塚川が気になり、元の道へ戻りました。川は「原稲荷神社」の下を西へと遡っています。少し川から離れて、農道を行きますと道は下りになって、三浦三十三観音の第三番札所である「圓通山蓮乗軒」の前に出ました。さらに川を遡って行くと、畑地の中の水路のように変化していきます。片や原の高台、一方は六合の畑地と言うように谷戸(やと)の中を川は流れています。かつては田んぼであったと思われる湿地も見えて来ます。湧き水の中で作業をしている人を数人、見かけたので声を掛けてみると、「クレソン」を栽培しているとのことでした。
谷戸の突き当たりの上は「三崎中学校」でした。狭塚川の源流は、中学校の下にある谷戸から発しているのではないかとの思いをいたしました。谷戸であるこの地は「池ノ尻」という小名がついています。『新編相模国風土記稿』の「原村」の項に「三崎分村の一なり、元禄の改にも三崎枝郷と傍記す」とあって、この書が成立した天保12年(1841)頃、家数は38とあります。また、小名の中に「六万本山」とあり、註として、「山林なり、古は松樹六万本ありしと云」と記されています。
もう一つ、気になるのは「十三塚」のことです。「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されています。村の東方に「遠ノ原」という所があります。「学校給食共同調理場」の前の道を北へ進んだ道筋に、かつてはあったと言うことで、地元の歴史を研究されている方の案内によって、一箇所だけみつけることができました。三浦道寸の家臣であった十三人の塚なのでしょう。この地は家臣のひとり、川島氏の治めたところでもあります。塚は他にもあると思われますが、時の移りで失われていく過去を想うと寂しく思われます。つづく
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