三浦の散歩道 〈第120回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「赤辺稲荷社」の前方、海辺に沿って「長浜」へと歩を進めて行きます。
「長浜」は文字通り、長い砂浜が続いています。正式名は「和田長浜(なはま)海岸」と呼ばれる処で、歩く前方に「ソレイユの丘」から続く「佃嵐崎」が見え、冬晴れの日には奥の方に「白い富士山」も望見できる、素晴らしい砂浜です。かつては「松林」の続く海岸で、「白砂青松」の言葉の如くであったのですが、現在では「三浦ふれあいの村」の木々が望めるほどです。やがて道路へ達し、「YMCA三浦ふれあいの村」の正門へと歩を進めました。ここは「子どもたちの自然体験活動のための野外教育施設」とあります。以前は県の教育施設でしたが、現在ではYMCAが運営する施設になっています。広々とした緑地帯で、子ども達も充分に楽しめそうな所のようです。
ここに至る道の反対側、左側の住所標示を見ましたら、「長井二丁目12番地」とあります。今、東に向かって歩いているこの道が市境になっているのです。やがて道は右へ曲がり、市境から離れて行き、左側は「平塚農高初声分校」の校地になっています。
その道路脇、民家の前に「和田城址」の石碑が見られます。その脇に「三浦一族の歴史コース」として「和田城址」の標示板が見られます。それには次のように記されています。
「和田小太郎義盛は十六才の秋、父の死をさかいに鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは義盛の居館(きょかん)があったところです。
義盛が和田ノ里に館をおいた。その頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたともあります。
義盛は和田を終生の根拠地と定め合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食糧が戦陣におくられるなど重要な役割を果たしていたところです。
現在、和田館(わだやかた)はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇、唐池(からいけ)(空池)、出口、赤羽根、矢作(やはぎ)などの地名が残っていて往時を偲ぶことができます。
また、和田館には木曽義仲の妾己御前(めかけともえごぜん)(註、「己」は「巴」の間違いか?)が義盛に預けられここで余生を送ったといわれます。三浦市」とあります。
ただ、ここから坂を下った国道近くに、義盛の中屋敷と伝える処(ところ)があるので、どちらが「城址」なのか、よくわかりません。
碑を見て、平塚農高初声分校前を経(へ)て、「天王坂」を下って、バスの通る国道を目指します。学校前の道から右へ入る道を選びました。左側は比較的新しい住宅が並んでいますが、右前方は大根とキャベツの畑地が続いています。
(つづく)
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