東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その12 今に残る団ジーンの足跡
既出のとおり、戦時中は箱根に疎開していた団ジーン。これまで戦火を避けてのことと言われてきましたが、この事情を知る人の話では、敵性外国人であるジーンを軍港横須賀基地の近くに置いてはおけないということで、団家に圧力がかかったのが最近の真相のようです。その後、終戦二カ月で横須賀市長井へ戻ったジーンは、離れていた五人の子どもたちとも一緒に暮らせることになります。
また、勝磨についても「スパイだ」とか、「殺してしまえ」と息巻く人がいましたので、長井の家に終戦末期海軍士官が下宿したのは、結果として勝磨を守ったことになったのかもしれません。
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さて、アメリカに里帰りしたジーンが昭和二十三(一九四八)年三月、勝磨のためにと持ち帰った位相差顕微鏡。同国でも新式であるとのお話を前回しましたが、ジーンが研究生活に回帰することを期待していた勝磨は、ジーンに「お前こそ使え」と言います。その後、いつ油壺の実験所へ戻ったかはっきりしていませんが、同年中には発生生物学者・団ジーンが再出発したものとみられます。なぜなら昭和二十四(一九四九)年、東大理学部で開催された日本動物学会の大会で、「位相差顕微鏡による精子進入の観察」という論文を発表しているからです。
以降、次々と画期的な論文を発表して、昭和三十三(一九五八)年には精子先体反応の研究によって、日本動物学会賞を受けています。女性としては、最初の受賞です。
ただ、油壺の実験所に於けるジーンの身分がどうなっていたかが分かりません。昭和十二(一九三七)年、勝磨のアメリカ研究生活からの帰国に伴って来日し、勝磨とともにコマチ(ニッポンウミシダ)の観察を開始しているのですが、実験所の教員(助手・嘱託を含む)や職員の記録を見ても団ジーンの名前は出て来ないのです。
この扱いは、昭和二十八(一九五三)年にお茶の水女子大学講師として転出するまで続いていたものとみられています。どうも団勝磨の無給の助手の扱いではなかったかと推測できますが、国籍がアメリカであったことが理由でしょうか?
(つづく)
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