東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その13 箱根仙石原の足跡を訪ねて
私は団ジーンの足跡をたどるべく、戦時中から昭和20(1945)年10月まで子供たちと疎開していた、団一家の別荘のあった箱根仙石原の疎開先の今を訪ねてみました。
この別荘は敷地2万坪の広大なもので、本館には団伊能(勝磨の兄)が疎開し、別館にジーンたちが入居していました。前述の「終戦の夜、団伊玖磨が扉をたたいた」のは、この別館の方です。
同ホテル支配人の苅部伸一氏によると、伊能は昭和32(1957)年、別荘を「箱根ハイランドホテル」として開業。しばらく一族が運営を続けましたが、昭和36(1961)年に小田急グループの傘下に入り、以後、現在に至っています。広い芝生の敷地には、地上2〜3階の低層の建物が部分的に建てられているだけで、かつての団一族の別荘の雰囲気を実感することができました。
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この連載を寄稿するにあたり、団勝磨・ジーン夫妻の長女みかさんとお手紙の交換をしているのですが、訪問をお知らせしたところ、その時代の「思い出の記」をいただきました。面白く、子供時代のいきいきとした行動が記されており、次号と2回に分けて原文をご紹介したいと思います。
「仙石原にいらっしゃいましたか。東京に空襲が始まってから横須賀・長井の家に帰れなかった母と幼い弟妹、小学校に入ったばかりの兄が祖父の夏の別荘に疎開したわけでした。中の私と妹が長井の家からときどき食料をリュックに詰めた父に連れられて、母やきょうだいに会いに、箱根に連れて行かれていました。ハイランドホテル(今もそんな名前でしょうか)のロビーなどには古い部分が今も残っているのでしょうか。
温泉のある母屋のとは別に、庭に本当に夏用の、暖房設備などない建物がありました。そこに私たちが住んでいたわけで寒かったのを覚えています。とは言え、庭には小川も流れ、野ウサギも飛び回り、ユリの花などむせるほどに咲いていました。早川では泳いだり水遊びも自由でしたし、2万坪あると後に聞きましたけれど、子どもには天国でしたよ。母は必死で庭を耕し、ジャガイモなど植えていましたけれど、私たちでスカートいっぱいにジャガイモの花を摘んで帰ったときにはたいそう嘆かれてしまいましたけれど…。野ウサギも仕掛けをして食料として捕獲しようとしていたのでしたけれど、弟がそれに引っかかってしまって大泣きをし、大騒ぎになったりしました」 (つづく)
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