連載 第21回「剣崎のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「剣崎」の名称について、次のような話が伝えられています。
江戸時代の万治年間(1658〜61年)のこと、幕府の官材を積んだ五百石船が、この沖で暴風のため難破し、積荷の木材もろとも船は海底に没してしまった。そこで海南神社の宮司が海に剣を投じて、龍神の怒りを鎮めて貰(も)らおうと祈ると忽ち風波が静まり、水没した官の材木がことごとく浮かび出たということで、その数は十八艘のくり船(丸木舟)で、磯に運ばれたという。剣を投じた、この地を剣崎と言うようになったと、伝えられています。
現在「京急バス」の行き先表示は「剱崎」になっています。辞典などで調べてみますと、「剣」を「ツルギ」と表記しています。その意味として「諸刃(もろは)の刃物のうち、特に先が菖蒲(しょうぶ)の葉の先のように細くとがったもの」としています。また、「古くはツルキ」とも言い、「ツリハキ(吊佩)」の約とも記しています。また、『万葉集』に「都流伎多智腰(ツルキタチこし)に取(と)り佩(は)き」の言い方をしています。などから「ツルギ」は「剣」の表記がよいのではと思います。立原正秋著の作品も『剣ヶ崎』としています。
大岡昇平氏が昭和四十八(1973)年に新潮社から出版された『愛について』の中に、次のような部分があります。
「二人は剣ヶ崎の燈台へ登った。三浦半島特有の白い土の間に『石蕗(つわぶき)』が生えている道を歩いた。この辺りは観音崎とは違って、三浦、城ヶ島と共に半島の先端を形成する海蝕台地である。」(後略)と書かれています。
立原正秋氏の『剣ヶ崎』の中でも、こんな場面があります。
「彼は灯台の建物が並んでいる一角を通りこし、岬の突端の断崖の上にでた。断崖を距(へだ)ててすぐ目の前に、こちらとほぼ同じ高さの岩山が二つあり、潮のひいた岩礁地帯では、数人の女が海藻を拾っており、岩山の向こうの岩礁の突端では男達が釣糸をたれていた。対岸の房総半島は霞んで、鋸山(のこぎりやま)がわずかに姿をみせていた。(後略)
この風景を眺める、この小説の主人公は「昭和十二年の秋から二十一年の春まで、彼は剣ヶ崎とともに生き、ともに暮らしてきた。」とあり、さらに、「彼のなかを、海鳴りがし、潮風が吹きぬけた。白い灯台で象徴される剣ヶ崎は、彼には断崖の剣ヶ崎として記憶に残っている。」として、「剣ヶ崎に棲みつくまでの過去に遡(さかのぼ)って行った。」と記して、主人公の数奇(すうき)な運命が描かれています。
(つづく)
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