連載 第23回「岩堂山のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「岩堂山」について近くに住む人々は「いわどやま」と呼んで親しんできたと言われています。この山は三浦半島南端では最も高い山で海抜八九・九メートルの山です。三浦市で最も高い山と言われますが、神奈川県内では、最も低い山だとも言われています。
この「岩堂山」が、立原正秋著『夏の光』に登場します。それは戦時中の話になります。
「岩堂山」は、三崎と剣ヶ崎を結ぶ中間のやや北寄りにあり、海抜八十二メートルで、頂上に観測所があった。(註、当時の標高の明記によります)近くの野頓坊の谷に、昭和十三年まで三崎砲台とよばれた砲台があったが、現在ここは東京湾要塞重砲兵聨隊の本部になっており、砲はない。しかし砲台跡はそのまま残っていた。野頓坊の谷は西にくちを開いており、谷の入口を高いコンクリート塁で四つに区切り、四砲をならべていた。塁には地下道が貫通し、掩蔽(えんぺい)壕(ごう)がつくられ、砲は東々北と西々南に配列され、首線は東京湾口に向けられていたが、しかし四周を砲撃できるようになっていた。砲台が築かれはじめたのは大正四年で、九年には七年式三十サンチ長榴弾砲四門が据えつけられた。これはのちに地震のため損害を受けたりしたが、間もなく復旧した。しかし、昭和十四年の三月に、満州東寧の郭亮山砲台に四門が移され、三崎砲台は十八年には除籍されたが、建設物はそのまま残され、やがて東部二一一二部隊の本部に使われだした。(中略)
東京湾要塞重砲兵聨隊の本部といっても、聨隊長は房総にいたし、岩堂山を率いているのは、小野寺基一という少佐であった。聨隊の人事異動はかなり激しかった。兵隊達の仕事もいそがしかったが、毎日が、訓練よりも砲の移転の仕事に追われていた。昭和十八年の暮から、東京湾附近では、アメリカ潜水艦の出没がかなりあり、それにつれ、東京湾要塞では、火力を浦賀水道入口附近に集中させるべく、砲の移動をはじめていた。」
大昔、行基菩薩がこの山に籠(こも)って、仏像を刻まれたと言われ、そのおりの木片が寄り集められ「木っぱ塚」が山中にあったとも伝えられています。
今は二つに分かれた山の姿ですが、西側の山中には、かつての要塞を思わせるコンクリートも残っています。
この山の頂きから海上を眺望するのも良いでしょう。現在、風車は動いていませんが、風車の向こうは広大な海があり、伊豆大島も眺められます。平和な時代は良いものですね。
(つづく)
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