連載 第35回「『三崎誌』を読む」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
江戸時代の宝暦六(1756)年に刊行された『三崎誌』の中に次のような文が書かれています。「むかしを尋て今にしらする人は昔不朽(ふきゅう)(昔のことはいつまでも残る)と思へる人の志(こころざし)を継(つなぎ)て後の人におよぼせば、その功むかしの人に同じかるべし」とあって、草也居士が編集した『三崎志』を調べてみると、鎮守海南の由来には哀なる事あり、ありがたき事あり」とあります。
また、草也居士こと、鶯丘舎草也(おうきゅうしゃそうや)氏は三崎のすばらしい景色を俳句に詠んでいました。例えば、海南神社の石灯篭に次のような句を残しています。「海よりの旭や恵む若葉陰(かげ)」や「夏山や幣(ごへい)にすかす夕月夜」、などがあります。
その草也氏の子息市明氏が、父の残した俳句にもとづき、三崎の神社仏閣や産物までの事跡をくわしく記したのです。そして、天明二(1782)年に『三崎誌』第二号は作られました。
その文中に、「七崎」の事や「産物」として、「鰹(かつお)」(古くは「松魚」とも記したようです。)について、「古書に鎌倉の海と書(かき)しは此所(ここ)なりとぞ、初鰹毎歳献上」とも書かれています。他に、「蚫(鮑(あわび))、海老(えび)、螺(ほら)貝」を挙げています。また、「鼠(ゆず)大根」を示し、「鎌倉の産にもあり、此所(ここ)を最上とす」ともあります。「高円坊村ニ作ル大根ハ本(もと)短ク葉大ナリ、味ガ至ッテ美ナリ是レヲ三浦ノ鼠大根ト云ッテ名産ナリ」と『三浦古尋録』(文化九年・1812年刊行)にも記されています。「水仙」も記されており、「城ヶ嶋に有(あり)、ふくへの花にして丈甚(はなはだ)長し」とあります。「ふくへ」とは「八重」のことなのでしょう。
他に、地名や町名として、次のような記述があります。地元の皆さんはご存知のことゝ思いますが、種々、あげてみましょう。先ずは、「鮫か渕」「北条の入江にあり、此鮫出る時はかならず大風雨あり、常は渕底に隠る」とあります。
他に、「法満町」現在の三崎町のことでしょう。昔、「法満寺という一向宗の旧地で、今は下総国銚子湊(みなと)に寺を移す」とあり、「法満寺井戸」として、「海向山の梺(ふもと)にあり」とも記されています。この井戸は現在も「光念寺」門前の下に見受けられます。また、「六軒町、牢岩穴」とあって、説明文に、「見竜山(光念寺の山号)の半腹にありむかし、御番所ありし時、禁嶽の地也」と、あります。他に、「新町、切通引道」とあるのは、「清月」の前の道を指しているのでしょうか。
「ひらめ町離れ嶋磯崎町花暮町」の条項では、「昔、城か島花盛の頃、日の暮るを忘れたり」と記されています。
また、「海南町」とあって「鳥居の通りをいふ」とも書かれています。
(つづく)
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