連載 第36回「三崎誌」を読む その2 三浦の咄いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
前回に示した『三崎誌』の中に「ひらめ町 離れ嶋 磯崎町 花暮町」と書かれ、その註として、「昔城か島花盛の頃、日の暮るを忘れたり」と記されています。現在の三崎三丁目辺りが「花暮町」であったのでしょう。
また、『三浦古尋録』(文化九年/1812年)に「昔シ頼朝公磯崎エ出御有(しゅつぎょあり)テ、御遊覧有(あり)シ処(ところ)、山桜ノ暮(くれる)ヲ惜(おしみ)給フ処(ところ)トテ、今ニ花暮磯崎(いそざき)ト云(いう)処有(あり)」と、書かれています。
「磯崎」は、その後、「仲の町」と一緒になって、「仲崎」の地名になったのでしょう。この「仲の町」に、前に記名した「ひらめ(平目)町」も入っているのです。
『三崎郷土史考』(内海延吉著)によりますと、「天保年間(1830年〜43年)には急に左の町名が新に出来た。」として、「花暮丁、法満丁、築出(つきだし)丁、背戸丁、六軒丁、新丁、鍋丁、海南丁、広小路、脇の丁」等を挙げています。「丁」は「町」のことです。いずれも、延宝(1670年代)の頃は「磯崎町」に属していたのでした。内海氏は「町名の増加は、即ち三崎の戸口の増加を物語るもの」としています。
「築出し丁(町)」のことを『三崎誌』に「海辺へ築(突き?)出したる町也(なり)」と記されています。今も在る「本宮(もとみや)」を註して、「海南宮の旧地小祠残る」とあります。
三崎三丁目の海辺に在る「竜神の宮」について、『三崎誌』に「風薫る夕暮漁舟此処(ここ)へ群(むれ)帰って明神へ鰹の初尾を献す」と記されています。江戸の時代、三崎は「鮪」ではなく、「鰹」の町であったのです。
「海南神社」については、「惣鎮守(そうちんじゅ)正一位海南大明神」として、「三浦一郷の惣社也」と記されています。「惣社(そうじゃ)」とは「数社の祭神を一カ所に集めた神社」のことで、「総社」でもあるのです。
神社のいわれについて、「大昔、九州で政務をつかさどっていた藤原資盈(すけみつ)公が、惟喬(これたか)、惟仁(これひと)(二人共、文徳天皇の皇子で、弟の惟仁親王は、のちの清和天皇)の位(くらい)争いの節(貞観八年/866年)、伴大納言は政敵である左大臣源信をおとしいれるため応天門に放火したが、真相がわかり、大納言は遠流に処せられた」と、『日本史辞典』(角川書店)にあります。その、「伴大納言のために左遷され、主従54人舟七艘で、貞観六(864)年霜月(陰暦十一月)朔日(ついたち)、此所(ここ)に着船し、御嫡(子息)の御舟は房陽(房州・現千葉県)へ着いた。」として、「今にその地に鉈(なた)切(ぎり)大明神と崇む」と記さています。
父の資盈公は「海南神社の祭神として崇められ、嫡男の左兵衛丞(さひょうえのじょう)は千葉の館山に「鉈切大明神」として祀(まつ)られたということです。
(つづく)
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