東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治、吉本尚その27 番外編【4】
「男爵はこの道をフォードでかっ飛ばして」とは、戦前の團氏を見覚える小網代のある古老の話。男爵家の次男坊の勝磨氏をこの辺りの人たちはそんなふうに呼んでいたようです。引橋から油壺方面へ抜ける田舎道をフォードで颯爽と走る姿は、さぞかし印象的だったことでしょう。
團氏はアメリカ滞在中に臨海実験所での就業辞令を得ていたので、ジーン夫人を伴っての帰国後は長井に藁葺きの古民家を得てそこでの新生活を始めたのでした。しかしその役職は副手で、しかも無給。大学で副手といえばいわば雑用係のようなものに過ぎないのですが、当然そんなことは承知の上。二人揃って研究が続けられさえすればそれだけで満足だったのでしょう。もちろん無給を承知で、というのは華族という豊かな家庭環境が背後にあったからこそのことだったのでしようが。
しかし、そんな余裕の生活も大戦を通じて一変。戦時下の筆舌に尽くせぬ苦難について繰り返し述べることはしませんが、軍に接収されていた研究所が返還されるや、お二人にまた以前どおりの日常が戻ってきました。しかし今度はフォードならぬ自転車で…。長井からの道のりは名だたる七曲りをはじめ悪路の連続。登り坂ともなれば自転車を押して歩かなければならないような苦難の道でした。しかし何事にもくよくよしないのが團氏の持ち前。その時ふと頭をよぎったのはバッハが道すがら音楽のインスピレーションを得たという小径の話。團氏もそれに倣(なら)って、研究上の思索に没頭したり実験結果について議論を闘わせたりするのに最適な道を「バッハの小径」と名付けることにしたのです。そして思い浮かんだのが現三崎中学校裏手の丘陵の尾根道。そこからは鋸山や伊豆大島、天城山、富士箱根から江ノ島まで一望でき、その景観は正に圧巻。ところがあまりにも雄大な風景に圧倒されてしまい、とても思索に没頭などできない。そこで彼らの「バッハの小径」は結局かつてフォードを駆っていたあの田舎じみた旧道に落ち着いたのでした。
そんな豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な團氏の性格は、大学での講義にもよく表れていました。何しろ話が面白い。まるで無関係そうな話が次々と飛び出しながら、講義の終了間際になるとそれらが全部一つにまとまって結論が浮き上がり、そして終了のベルと同時にその日の話がピタリと終わる。これほど学生たちを引きつける名人芸的な講義は他に例を知りません。 (つづく)
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