連載 第49回「見桃寺のこと【2】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「見桃寺の開基(創立した人)は、向井兵庫守政綱で、創建されたのは天正年間(1573年〜91年)である旨は、前回に記しました。
その向井氏の発祥の地は「紀伊国(現在の和歌山県と三重県の一部)の尾鷲」とする説や「伊賀国(現在の三重県)向庄」とする説などがあります。『史料が語る 向井水軍とその周辺』(鈴木かほる著)によりますと「現在の三重県亀山市加太向井である。」としています。政綱の父、正重(まさしげ)は今川氏を経て、武田氏に帰属したというのです。その正重は帰属後の七カ月の後ち、軍船の新造に取り掛かったと言うのです。
武田水軍の知行地は、今川氏の旧領地の駿河、遠江の内にあり、筆頭は小浜景隆の二十六カ所で、向井氏は十八カ所を知行(支配すること)していたのです。
天正三(1575)年、徳川勢が駿河の蒲原(かんばら)、江尻を攻めたとき、武田水軍の小浜景隆、向井正重等は、その地を死守し、武田勝頼から感謝状を受けています。天正七年、徳川勢は武田水軍の拠点である駿河の用宗(もちむね)城を攻めたとき、向井正重は養子の政勝と共に自害しています。
武田勝頼死後の翌年、天正十一(1583)年に徳川氏に仕官し、小牧、長久手の戦や小田原攻めに参加しています。
徳川家康は、水軍の本拠地として、江戸の内海に当たる、上総(かずさ)の富津(ふっつ)、五井と相模の三浦三崎を定めたのです。
天正十八(1590)年九月、小浜景隆・間宮高則・千賀重親及び向井政綱を「三崎四人衆」として江戸の内海関門の警備に当たらせました。時に政綱35歳、嫡子(ちゃくし)忠勝9歳の時でした。
おもしろいことに、「中世の海上での武力の行使者は、東海、関東においては、ほぼ『海賊衆』として現れる。」(鈴木かほる著『史料が語る 向井水軍とその周辺』)とあり、その後、「船手」の呼称となったと言うのです。その中心が「船手頭(かしら)」です。
「見桃寺」に向井一族の墓があります。三浦市の文化財にも指定された立派なものです。
その墓は、「天慶玄龍」との法名をもつ、政綱をはじめ、政綱室(政綱妻)、忠勝、忠勝室、直宗、直宗室、直宗の子右衛門太郎の七名の墓碑です。
なお、『三崎志』に、「向井左近将監忠勝の碑」が、「宝蔵山ニアリ」として、銘文が載っています。
(つづく)
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