東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 その1 進駐軍に示した海洋学者の気概
東京大学三崎臨海実験所。その建物は三浦半島の突端、油壷湾に面して立っています。歴史と由来は古く、彼(か)のモースによる海洋学建学の流れを継ぎ、昨年開設130周年の式典が開催されたところです。昭和天皇の生物学事始めもこの場所で、実に内外の多くの学究の徒が、古くは明治時代から去来しています。戦前には、我が国で最も多彩な国際交流機関であったといえます。
しかし、第二次大戦末期には日本海軍特殊潜航艇基地となり、敗戦時には米軍に接収されることになりました。その際、実験所を守ったとされるのが、発生生物学者で同大学講師だった団勝磨(だんかつま)氏(1904―1996)と、国籍を超えて戦後の日本人の為に尽くした米国出身の妻・団ジーン氏です。この二人が地元横須賀市長井に所在し実験所へ通っていたこと、頌すべき業績の大きさなどを今の世代に伝えたいと強く念じ、その崇高な人生に光を当ててみようと思います。
(以下、敬称省略)
一九四五年八月二十九日、マッカーサー司令部の先遣隊が厚木飛行場に着いた足で、実験所にやって来ました。先方は、少佐・副官・通訳・GI、日本側は海軍の将校三人と団勝磨。会議室での会話は、双方の緊張と怯えで当初は成立しませんでしたが、勝磨の流暢な英語に大佐が気付き、じっくり話を聞いてくれたといいます。
実験所へ戻った勝磨は、ハトロン紙に墨汁でメッセージを書き上げ、扉に貼りつけて立ち去りました。その全文を紹介します。
「ここは60年以上の歴史を持つ臨海実験所である。貴官が東部出身なら、『ウッズホール』や『マウントデザート』、あるいは『トルチュガス』の実験所をご存じであろう。また、西海岸を故郷とする人々は、『パシフィック・グローブ』とか『ビュゼット・サウンド』の臨海実験所の名前を聞いたことがあると思う。当所も、そのような実験所である。従ってこの場所を手荒く扱わず、私たちが軍事とは無縁な研究を続けられるようにして頂きたい。
貴官らが武器と軍事施設を破壊されるのは自由だが、日本人研究者のための一般施設には手をつけないでほしい。また、当所での任務を完了されたときは、その旨を大学に通報し、私たちがこの研究施設に立ちもどれるように配慮されたい――最後に退去する者より」
(磯野直秀著『三崎臨海実験所を去来した人々』より)。
特に棒線の部分は名文です。米軍の接収は免れませんでしたが、勝磨のメッセージにより建物の破壊の危機は回避することができたのです。
(つづく)
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