東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その22 実験所を支えた地元の2人【7】
冨山一郎所長時代の昭和30年代、実験所の黄金時代が続きます。この時点で団勝磨は都立大学の教授の職にあり、団ジーンはお茶の水女子大学に転じて、講師を務めていました。実験所は新鋭機器も整備され、都立大の団勝磨スクール、お茶の水大の団ジーンの弟子たちをはじめ、全国から研究者たちが油壺を訪れるようになり、実験所は雑踏を極めます。採集人も重さんのほかに2人増え、倍増したアカウニ・バフンウニなどの注文をこなすのですが、昭和30代末になると重さんの顔が曇るようになります。なぜなら、三浦半島一帯の開発が始まったからです。
半島一円は埋め立てられ、岸壁の新設、浅瀬の浚渫に染まると、ウミウシ・アメフラシ・ウニ・ナマコが群れ、見渡すかぎり海藻に覆われていた磯や干潟が失われていきました。別荘やヨットが増え、汚水・油の流入が激しく、内湾も次第に汚れていったのです。
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昭和36(1961)年、技官から嘱託になりますが、それでも実験所でキビキビと働いていた重さん。昭和39(1964)年には古希を前に黄綬褒章を叙勲。ちょうどこの頃から老いが見え始め、昭和47(1972)年に引退。在職期間は、じつに45年4カ月、78歳寸前でした。日本動物学会はそれまでの功績を称え、昭和57(1982)年春、表彰状を授与。同年4月11日早朝、重さんは世を去りました。享年87歳、戒名は重誓院範誉教順居士。現在も実験所に近い小網代のお寺に眠っています。
過日、重さんのお墓にお参りしたあと、お寺の住職とお話ししましたが、住職は重さんの存在も、お寺の敷地内に重さんが眠っていることもご存じありませんでした。無理もありません。当事者同士の世代交代もありますが、なんとしても「戦後」が遠くなったからです(子どもさんがいなかったことも一因かもしれません)。
採集人としては、前任者の「熊さん」こと、青木熊吉が昭和天皇への貸しを作った一件から、巷間華々しく登場しました。しかし、熊さんをご存じの地元の方でも重さんのことを知る人は極めて稀です。戦中戦後、日米両軍から身を挺して実験所を守った重さんの行いは、もう少し語り継がれてもいいのではないかと思案するところです。
また、団夫妻の長女「みか」さんから、重さん夫妻にかかわる面白いお話をお寄せいただきました。次回紹介します。
(つづく)
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