連載 第45回「城村のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
江戸時代、約十年の歳月を費やして、天保十二(1841)年に完成された『新編相模風土記稿』(全六巻)の中に、「三崎町」(美佐木末智)の項があって、小名(小字(こあざ))として、「花暮町・法満(ほうまん)町・築出(つきだし)町・東町・中之町・瀬戸町・大黒町・六軒町・新町・鍋町・海南町・広小路・脇之町・西之浜・北条上之山・西之町・磯崎町」が記されています。
明治に入って、「東町」が、「日の出町・入船町・仲崎町」となり、「中之町」が、「花暮町・海南町」に、「西野町・西の浜町」に分けられました。
大正期に入ると、「部落」として、「日の出・入船・仲崎・花暮・海南・西野・宮城・西の浜・原・宮川・田中・向ガ崎・諏訪・上橋・東岡・白石・海外・城ヶ島・諸磯・小網代」等、二十部落となり、ほぼ、現在の区名と同じ呼名となったのです。
ただ、現在では「三崎一丁目」など、「三崎一」〜「三崎五」に表示が変わりました。その中で、「三崎五丁目」に当たる里(さと)が、かつての「宮城」です。その由来について、『二十五年のあゆみ、三浦区長会』(昭和五十七年三月発行)の中で、当時「宮城区」の区長であった大井秀雄氏が、「宮城」の由来として、『相模風土記稿』を引用されて、「江戸より行程十八里(約72Km)、今(いま)間宮虎之助の知る所なり、其(その)祖先間宮造酒丞信高(みきのじょうのぶたかたか)、甲州武田信玄に仕へ、武田没落の後(のち)、東照宮(徳川家康)に仕(つか)へ奉り、水主(かこ)(船乗り・船頭の意)三十人預り、三崎海中の固めをなす。故に当所を屋鋪(やしき)地となし要害(とりで)を構(かま)へければ城村の唱(とな)へ起りしと云ふ。(後略)」
その後間宮氏は江戸へ移り、三十人の水主等は漁業に専心した。とのことで、特に、鰹魚を漁していた。とのことです。
また、宝暦六(1756)年刊の『三崎志』には「一名城ノ谷、按(しらべる)ニ貞観年中(859〜77年)一人ノ尉(にょう)(老翁(ろうおう))此処(ここ)ニ居(きょ)ス、因(よっ)テ名(なの)ルト」
また、『三浦古尋録』(文化九〈1812〉年刊)の「昔、御船手間宮虎之助屋鋪(やしき)此村ニ有、今ノ漁者ハ其(そ)ノ船手士(ふねでし)の末(まつ)ナルヨシ申ス」とし、また、この村には田畑がないので、海上での収益をもって地頭所への貢納としていたことも記されています。
かつての「城村」から、間宮氏の統治に由来する「宮城(みやぎ)」と名称し、さらに「三崎五丁目」へと移り変わっていったのです。
「城村」と称する証拠はないかと尋ねたところ、「住吉神社」のそばに、安政七(1860)年の年号の入った庚申塔の台座に「城村中」の文字がありました。
(つづく)
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