連載 第62回「『三浦古尋録』より三浦の七石【1】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
『三浦古尋録』の初めの方に「三浦の何々」と記されている箇所があります。今回、そのうちから「三浦七石」の部を追ってみようと思います。
書の下巻の初めに「八幡久里浜村ヲ初メテ南ヨリ西ヱト海岸鎌倉飯島前小壷村ニ至ル……」と記され、当時の村名、36村が書かれています。そのうち、いちばん西方寄りの「小壷村」の「鍋島石」から尋ねてみようと思います。
そこには「鍋嶋(なべしま)磯」が紹介されています。「是(これ)ハ先年鍋島ノ船石ヲ積(つみ)来リテ此処(ここ)ニテ破船ス、故(ゆえ)ニ鍋島磯ト申スヨシ」とあります。現在の「不如帰(ほととぎす)碑」近くと思われます。
江戸城築城の折り、幕府は各藩に石垣用の石を運ぶよう指示したと言われています。その時、鍋島藩の運搬船が、この地で遭難したときの積石を「鍋島石」と称したのでしょう。
二つ目は、秋谷の「立石(たていし)」を指します。本文の脚注に「此処(ここ)ノ浜ニ立石ト云有(いうあり)、海中高数十丈有…」とあります。一丈は約三・〇三メートルですから30メートルを超(こ)える程の石柱と言えましょう。なお、この地は「大崩(おおくずれ)」とも言われています。
三つ目は、久留和海岸の「子産石(こうみいし)」のことです。「曲輪(くるわ)ノ浜ニ子産石(こうみいし)ト云々有リ、有年此(あるとしこの)石ヨリ小石ヲ分出ス、故(ゆえ)ニ子産石ト云フ」とあります。
『横須賀雑考』(昭和43年・横須賀文化協会発行)の中に、「石質を異にする球状の礫石(しきせき)(小石の意)があって、波に洗われて、ころがり出るもので、大きさは、径三センチ位(ぐらい)から三〇センチ位におよぶ。(中略)これは安産の守りとして、婦女子に信仰されても来た。(後略)」とあります。また、京急バスの「子産石」停留所前の家に庭石として飾られているとも、記されています。
四つ目は、横須賀の公郷にある「曹源寺」のことです。以前は、「宗元寺」の文字を使っていました。『三浦古尋録』の中に、「薬師堂ノ側ニ眼拭(めぬぐい)石有」の一文があります。
『新編相模国風土記稿』の中に、「寺伝に天平中、行基草創の古道場なり、行基一刀三礼して薬師の像を彫刻し本尊とす」の一文が見られます。
五つ目は、「吉井の飛石」です。『三浦古尋録』に「吉井鎮守安房口明神」とあって、「此ノ明神、社(やしろ)モナク華表(とりい)バカリニシテ石一ツ山上ニアリ、ソノ石ニ口有リ、安房(あわ)ノ方ヱ向フ故(ゆえ)安房口明神ト云ヒ、又、安房(あわ)ヨリ飛ビ来ル石故(ゆえ)安房口トモ云」とあります。
現在の千葉県の南「安房」から飛んで来たので「飛び石」とも称しています。
(つづく)
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