連載 第39回「海南神社のこと【3】」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介
「海南神社は天元五(982)年に、補陀山海潮寺のあった楫谷山(現在の神社の位置)に建てられたと縁起書にあり、これが従来の定説で、資盈死後百十六年後のことである。」(『三崎郷土史考』内海延吉著)と記されています。
その後、三浦一族家の祈願所として、供田として「宮田」の名称由来や大介義明、義村、道寸の信仰等があったのです。
江戸時代に入って、神社は享保八(1723)年、次いで寛保三(1743)年に社殿の改築があり、その御遷宮(ごせんぐう)(神殿の改築や修理の前後に神霊を仮殿や本殿にうつすことや、その儀式を言う)が、延享二(1745)年六月に行われたのでした。そのことが、前号で紹介した鶯丘舎草也(木村伝右衛門)献灯の石灯籠に記された文からも推量できます。
それには、次のように記されています。
「海南の海は唐(から)(底とも)までも青く楫谷(しゅうこく)の楫(かじ)は船を恵み、人を修するの教にして上なき宝にや。されば宮柱太しき栄へも善尽(つく)し、美尽(つく)して成就(じょうじゅ)。」
海南の海は底までも青く、楫谷(かつての神社の存する処)は「楫谷山」と称し、「楫谷」の「楫」は、「船の楫」を意味することから、船の恵みと言い、「楫谷の地」は人が修養するには最上の宝であろうとして、神社が栄えることで、善も美も成就するものである。と述べています。
さらに、文は次のように続いています。
「とくと此水無月(このみなつき)(六月のこと)例祭の砌迂宮(みぎりせんぐう)(例祭の時、神社のご神体をよそに移す《遷宮》)ましますの幸にまかせ、神帳を開かせ給ふに、郡裡(郡のなか)の惣社(参拝の便利を考えて、数社の祭神を一カ所に集めた神社)千戸の宗廟(そうびょう)(祖先をまつるみたまや)とて、老少男女足元も見ず、押合侍(はべ)る。予(私)も、そのひとりにして、ここに寸志の石灯籠を添(そ)へ参らせ、恐(かしこ)み拝(おが)まん事を祈(いのり)、且(かつ)みあかしの上、久しく給へる朝蔭(かげ)夕かげの光りとも仰ぎ奉るものならし」と刻字され、次の二句が添えられています。
「海よりの朝日や恵(めぐ)む若葉蔭(かげ)」
「夏山や幣にすかす夕月夜」
草也
延享二乙丑年 林鐘
『三崎誌』を元に書いてきましたが、文中にあるように、延享二(1745)年の六月に「御遷宮が行われ、老少男女の多くの人々が参拝に来られ、押合いになった旨が記されています。その折の「石灯籠」寄進だったのです。
(つづく)
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