3月27日に20周年記念パーティーを開く秦野遊球倶楽部の代表 川上 之久さん 曽屋在住 77歳
いつまでも仲間と共に
○…「部員は皆『野球病』なんですよ。医者にかかっても治らないようです」。紳士的な口ぶりに独特のジョークを交える明るい人柄で、笑顔の絶えないチームを支える。「悠久、倶(とも)に楽しむ」という願いが込められた60歳以上の野球チーム「秦野遊球倶楽部」に入部し17年。2年前、代表に就いた。選手としてグランドに立つことはなくなっても、週2回の練習日には雨でも欠かさず足を運ぶ。「部員がプレーする姿に元気と勇気を貰います。諸先輩方が築いてきた事を受け継ぎながら、老体に鞭を打ってでも長く続けたい」と20周年への想いを笑顔で語る。
○…「品行方正な野球少年」で当時から友人が多かった。地元熊本の県立高校で1年生から内野手として公式戦に出場。卒業後は野球部のある鹿児島市内の日産系企業に就職した。ところが社会人野球の県代表として天皇賜杯全日本軟式野球大会へ出場した矢先、右肩が痛み始め、職場とチームを去る事に。21歳だった。
○…「野球部の監督になってほしい」と熊本の母校から声が掛かったのはそんな時。鹿児島時代の野球部の監督の紹介で、実業団「日鉄二瀬」の故・濃人(のうにん)渉監督(後の中日ドラゴンズ監督)に指導法を学んだ後、23歳で監督に。チームワークと協調性を重視し、球児たちから慕われた。
○…職を求め上京し、日鍛バルブへの転職を機に秦野へ。我が子の応援に行った少年野球大会で、グランドに落ちていたタバコの吸い殻を拾っていたところ、市少年野球連盟の関係者の目に留まり、その後、審判部長を任された。「子ども達の試合では、安全に1番気を揉みましたね」。見守った少年のその後の活躍を知ると、今もうれしくなる。
○…青春時代を共に過ごした友人達とは今も仲が良く、昨年も9泊11日の船旅を堪能。「持つべきものは友ですね」とにっこり。自由な自身を受け入れてくれる妻に「理解のある女房で」と感謝を口にした。
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