終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第22回は、戦時下に稼働していた企業や、その従業員に焦点をあてた。
市内成田の(株)GSユアサ小田原事業所は、毎年8月上旬に慰霊祭を行っている。管理職など10人が慰霊碑の前に集まり、順々に手を合わせる=写真。約100人の従業員たちも、空襲を受けた午前8時30分にはそれぞれの持ち場で黙祷。先輩たちの冥福を祈る。
海軍の指定工場として蓄電池を製造していた湯浅電地(現GSユアサ)小田原工場は1945年8月13日、空襲に遭い、その日工場にいた13人が命を落とした。うち11人が10代後半から20代前半の女性、最年少は15歳、最年長でも39歳男性。工場が稼働し始める時間帯での出来事だった。
戦後、扇町の営業所内には慰霊碑を設置した。工場再編に伴って2009年に今の場所へ移転する際、碑をどうするかも社内で検討された。現小田原事業所の温田敏之所長(55)は振り返る。「会社として、空襲を受けた事実と犠牲になった方々への慰霊の気持ちを、引き継いでいきたいと移したんです」。今年6月には、空襲で亡くなった39歳男性の娘が九州から事業所を訪れた。「1度は来てみたかった」。そう言って娘は手を合わせた。
***
湯浅電池のほかにも、市内には軍需用の製造拠点があり、学生たちの力も必要とされた。
爆撃機「銀河」の燃料タンクと水上戦闘機の一部を製造していた日新工業小田原工場もそのひとつ。当時、小田原中学に通っていた市内千代在住の川口真男さん(85)は、学徒動員で終戦までの約1年間を久野のJT跡地にあった工場に勤務。水上戦闘機を支えるフロート部分をつくり続けた。「学校には行かず、ほとんどの時間を作業場で過ごした。一生懸命働いたなあ」と川口さん。戦況の悪化を受け、「身の危険を感じながら日々の生活を送っていた。終戦時は、悔しさもあったけれどほっとした。これからは学問に打ち込みたいと思った」。
学生、妻子持ち、前途ある人々が苦難のときを送った戦時中。現在、ユアサ小田原事業所に勤める中込達治さん(41)は、「私たちの生活は、亡くなった方の上で成り立っている。感謝の念を忘れずに生きていきたい」と誓った。今年も事業所では、8月7日(金)の午前8時30分に、先人たちを偲ぶ慰霊祭が行われる。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
神奈川県警察官友の会社会全体の犯罪防止や治安維持に寄与し、民間の力を合わせて警察官を支援 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
お堀端のボリューミーなステーキ店【NEW OPEN!!】柔らかジューシーな特選&絶品ビーフを城下町小田原で堪能! |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<PR>
小田原・箱根・湯河原・真鶴版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|