終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第43回は元市議の守屋喜代松さん(84)。
1941(昭和16)年12月8日。「寒い朝だった」と記憶する。起きだしてきた小学校5年生の少年に『真珠湾攻撃、日本大勝利』の一報は、「いよいよ戦争が始まった」と少し心躍るニュースだった。
学校へ向かう途中、道行く人々は口々に開戦を話題にし、町は「日本の大勝利」を信じてやまない空気に満ち溢れていた。
吉田島農林学校(現吉田島総合高校)への入学を翌月に控えた43年3月。金時山の方角から一機の戦闘機が、芦子小の校庭にいた自らの上空を通り、相模湾に向かって飛んで行くのが見えた。米軍のB29だった。敵の機影に「ただ事ではない」と感じた当時の驚きと恐怖は、今でも覚えている。
地域の農業指導者となるべく入学した農林学校。校庭には郷土の偉人・二宮尊徳を祀る神社があり、入学式の翌日、酒匂川で小石を拾い、その祠に自らの名前と農業指導者になる願いを込め、奉納した。
しかし、いざ入学してみると、軍事教練ばかり。さらに1年の3分1から半分は食糧増産のため、勤労奉仕隊として転々と農家に泊まり込み、農作業に明け暮れた。「果たして13歳の子どもの力が役立ったものかどうか」と今では訝しさも覚える。新しい農場の開拓に駆り出され、稲作に加え水田の裏作でジャガイモを栽培した。空襲に備え、山の中や家の庭に防空壕も掘った。
入学当時の理想から程遠い毎日で、15歳の時に、肺炎を患い倒れてしまう。病で気が弱っていたからか、戦局が日に日に悪くなるのを感じた。
1945年8月15日。未明に小田原を襲った空襲。近所の市方神社横の防空壕に家族そろって逃げ込んだ。大火となった万年町(今の浜町周辺)へ、鎮火の応援に向かったと思われる兵隊たちが、荻窪の方へ帰ってきて言った。「昼に何やら大事なラジオ放送があるらしい」
放送はよく聞き取れなかったが、戦争が終わったことは周りの空気で読み取れた。「この後、日本はどうなるのか」漠然とした不安とともに頭をよぎったのは「これからは落ち着いて勉強ができる」ということだった。
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