1945年(昭和20年)8月15日の戦争終結から70年。節目の年を迎えるにあたり、本紙では区民の戦争体験と戦後の歩みを紹介する。第1回目は大島上町在住の安田良三さんと登代子さん夫妻。今回は安田良三さんが思い出を語る。
(不定期掲載)
シャー。音を立てながら敵艦が放った魚雷が横切った。「ものすごい音。不気味なスクリュー音は今でも耳に残る」
安田さんが忘れることができない戦争の記憶は、乗船した第65号海防艦での出来事だ。
1928年(昭和3年)4月17日、福井県勝山市で生まれた。近所に海軍少尉がいた影響もあり、海軍へ憧れていた。
1943年(昭和18年)5月、白いたすきをかけて出征。舞鶴海兵団で3カ月軍事訓練を受け、その後、横須賀の海軍通信学校に入学し、電気やモールス信号の特訓を受けた。「恩賜の時計を目指し猛勉強したが体を壊し、胸膜に水が溜まり入院することになった」と安田さん。その時「たるんでる!」。バットで殴られた。海軍だけの病院に15日間入院し、海軍通信学校へ戻って再び勉強し期間を終えた。
その後、北陸富山湾の第65号海防艦に配属されるが船が出来上がっていないため2カ月ほどカムチャッカ方面へ違う海防艦に乗り込んだ。その時魚雷を1発受け沈む。幸いにも直前に仲間の1隻が来て助かった。
上官の命令により、再び富山に戻り、第65号海防艦に乗船し、室蘭軍港を目指した。到着すると、ほか5隻の船が集まっていた。
到着翌日の朝方。米軍戦闘機グラマンが我々をめがけて一斉射撃を行った。50機から60機くらいが海防艦へ向かって急降下し爆弾を落としていった。覚えているだけで6発は被弾した。軍港に停泊していた6隻は全て沈められた。「すさまじい」。
30分たつと船が傾き始めた。船体が傾き始めると人は高いところへ逃げようとする。2階あるいは3階くらいの高い場所から靴だけ脱いで渦を巻く海へと飛び込み泳ぎ始めた。泳げない人は海の中へ沈んだ。生き残っている人は列になって励まし合いながら泳いだが機銃掃射が浴びせられた。安田さんは必死に列から離れ、3時間近く泳いだ。
たどり着いたところは日鉄深瀬海岸。海防艦に乗っていたのが150人位だっがそのうち生き残ったのはわずか20〜30人だ。
今度はその日鉄深瀬海岸めがけて艦砲射撃が雨あられのごとく撃ち込まれた。
安田さんは寒さで震えながらも民間人の使った防空壕へ入りこみ救われた。
命からがら京都舞鶴へ戻った安田さんは8月15日の終戦を舞鶴で聞いた。
軍国主義の教育で予科練に憧れを抱いて出征していった仲間たちは皆死んだ。
「戦争は勝っても負けても絶対にするもんじゃない」
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