戦没者村葬の資料発見 生きた証しを遺族へ
太平洋戦争終戦から70年の節目を迎える今年、中央区東淵野辺在住の河本敏さん(88)宅で、戦中に大沢村(現・緑区の一部)や大野村(現・中央区および南区の一部)から出兵し、命を落とした戦没者を村葬し、慰霊した際の資料が見つかった。資料は全7点・7人分で、それぞれ表紙に戦没者1名の兵役での階級、氏名が記され、ページをめくると本人の写真や経歴、命を落とした状況などが記載されている。河本さんは「故人が国のために戦い、生きた証しとして、遺族に渡したい」と話している。
戦没者を村葬した際の資料は、河本さんの父親・河本磯吉さんの遺品を整理していた際、茶封筒に入った状態で発見された。資料は村葬を執り行った日付こそ異なるが、すべて「昭和14年」(1939年)と記載がある。ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発したこの年。日本は日中戦争下で、満州とモンゴルの国境にあるノモンハンでは満州国軍とモンゴル・ソ連軍が大規模に衝突したノモンハン事件が発生。日本軍も8000人を超える兵士が命を落とした。今回、資料にある戦没者は、ノモンハンのほか、江蘇省や湖北省など中国で戦死した人が大半を占める。
河本さんは1939年当時12歳。大野村での村葬は、大野尋常高等小学校(現・大野小学校)で行われ、河本さんも幾度か参列した記憶があるという。「校庭に亡くなった方の写真を飾り、村を挙げて盛大に行われていました。一度の村葬で同じ時期に命を落とした数名を慰霊していたと記憶しています」
当時、戦没者は英霊として忠魂碑に祀られた。日本はその後、日中戦争が泥沼化し、さらには米英などの連合国を相手に太平洋戦争へと突き進むことになる。今回見つかった資料は遺族を探し出し渡すことで、「かつて祖国のために命がけで戦い、命を落とした身内がいたことを改めて思い出してもらえたら」と考えている。
「現実に触れた」と親族の一人
発見された資料のうち、天野末男陸軍騎兵伍長(22歳で戦死)の分は、すでに親族の天野悦夫さん(72)に手渡した。末男伍長は悦夫さんの祖父の異母兄弟にあたるという。資料を目にした悦夫さんは、河本さんへ感謝を述べるとともに「戦争が身近にあったという現実に触れた」と話す。悦夫さんは直接、末男伍長と面識はない。しかし、亡くなった父・保利さんから、中国方面で戦死した親族がいたことを聞いていたという。末男伍長の資料は父の遺品とともに大切に保管するつもりだ。
河本さんは、資料にある戦没者の遺族を探し出すため、現在市と調整を進めている。「二度と戦争が起こらない未来になって欲しい」と願いながら。
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