現役を退いてからというもの、今まで意識してなかったものに目が行くようになった。月もそう。今年1月2日の満月はきれいだった。月はだんだん高く東に移っていく。2週間たつと消える。実は、月は動かないものだと思っていた。1月31日は皆既月食。その翌日の満月もまたきれいだった。
月と言えば、こんな話がある。仏教の親鸞は「汝なんぞ指を見てしかも月を見ざると」と言った。私たちは月には関心がなく、月を指す指だけを見ている。これは、自分のこと、他人のこと、周りのことばかり気になっていて、大切なものが見えていないということのたとえだ。親鸞は「月を見なさい」と言った。日常で生きている私たちは、人間を超えた非日常、無為、世界を仰ぎ見るという行為がなくなってきている。
たとえば、神奈川県にはもともと「鎮守の森」が2850あった。「鎮守の森」とは、神社を囲むようにして存在した森のこと。40年前に横浜国立大の間宮という教授が県からの依頼で調査をしたところ、45しかなかったそうだ。今はどうなっているのか―。
「鎮守の森」というのは無駄、何の役にも立たない。私たちはこれをつぶして、工場を建てた。住宅や駐車場も設けた。生産が上がる、収益も上がる。これが今の経済成長以降の人々の価値観となった。つまりは富、権力、生産、効率、利便性。最近では車の自動運転などといっている。要するに〝手間を抜く〟。ところが、反対に教育・福祉・医療は手間をかけるもの、もっといえば手間をかけなければいけない。手間を抜こうという時代に、手間をかける価値が失われていっている。今、待機児童解消のため保育所をつくっている。でも、肝心の保育士が足りない。社会福祉士も足りない。社会福祉士というのは人と人との関係を作っていく人であり手間をかける。これをどうするか。利便性を求める社会の中で、人間と人間の関係をどう捉えていくか―。
聖書の言葉に、「一人より二人がいい」とある。理由は「倒れた時に助け起こすことができるから」。1995年1月17日、阪神淡路大震災。一番大きな被害を受けた長田区では救助された人の4人に3人は、警察や消防の手ではなく、隣の人や見ず知らずの人の手によって助けられた。そういう「手間のかかった」人間関係をこれからどう維持していくか―。特に、近年災害の多い日本ではなおさらだ。
2011年3月11日、東日本大震災。津波で家族が流されていく、助けることができない。日本のテレビでは自粛したが、外国では人が流れていく様子を流したそうだ。なすすべがない。死んでも火葬ができない、墓や寺が流されていく。絶望の淵に立たされて人々になにができたか―。「祈り」だった。宗教じゃない。祈りとは、自分を見えないものにゆだねること。私たちは、「祈り」において復興に立ち上がるエネルギーが堪えられている。
「見える世界」に捉われている私たちが、「見えない世界」に目を向ける。「月を仰ぐ」のもその一つ。今、その必要性を強く感じる。
|
<PR>
横須賀版のコラム最新6件
|
|
|
|
|
|