終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第30回は長崎市で被爆した大西国夫さん(79)。
父の生まれ故郷である長崎市へ大阪から転居したのは、小学校入学を目前に控えた1943年春のことだった。日常生活にも戦争の影が色濃くなりはじめていた。「大都市より少しは安らかに生活できると父が考えたのでしょう」。徐々に食糧の配給が減るなど戦争の厳しさを味わいながらも、生命の危険にさらされることはなかった。
だが、45年8月9日、平穏な日々は一発の原子爆弾に奪われる。
午前11時2分。自宅前で遊んでいた大西さんは、遠くの空にブーンと響く飛行機の音を聞く。空襲警報もなく、「なんだろう」と空を見上げたその瞬間だった。「ピカッと閃光が走り、何もかも見えなくなった。まるで目の中に白いものを入れられたみたいに」。直後にドーンと耳をつんざく轟音。猛烈な爆風で、四方から瓦や割れた窓ガラス、土壁が渦を巻いて飛んできた。
とっさに地面にふせていた大西さんは身を起こすと、土ぼこりで薄暗くなったなかを、逃げ惑う人々の流れについて無我夢中で駆けた。行き着いた先は、地域住民が防空壕として利用していた山中の洞窟。見下ろす長崎の街は燃え盛り、空は真っ赤に染まっていた。続々と逃げ込んでくる血まみれの人たちの姿に、「世の終わりだ」と感じながらも、「恐怖心はなかった。もはや感情の極限を超えていたのかもしれない」。
後に家族と再会。爆心地から3・6Kmにあった自宅は半壊したが、身ごもっていた母も無事だった。だが、「なぜあの時、家族のことを少しも気に留めず一人で逃げたのか」と、今なお自分を責め続けている。
戦後、原爆の後障害で生きる気力を失う「ぶらぶら病」が流行。大西さんも鼻血や歯茎の出血に悩まされた。しかし、「GHQの指令か、原爆について話すのは家族間でもタブー」だったことから、原因は分からずじまいだった。「70年経った今も、体の隅に放射能が潜んでいるのではないか、それがいつか爆発するのではないかという不安がある」という大西さん。現在は小田原市原爆被爆者の会会長として、中学校などで被爆体験を語り継いでいる。