太平洋戦争終結から74年。戦争を知らない世代が増える一方、戦争体験者は減少の一途をたどる。本コーナーでは当時の様子を後世へ継承すべく、小田原市や足柄下郡に住む体験者らの証言をもとに、身近な視点から戦争の記憶をたどる。
小田原市在住の飯山征二さん(77)は、8年前に他界した母のナミさんの遺品からある品々を見つけた。それは太平洋戦争で帰らぬ人となった父・清さんの出征時、大井町の実家に見送りに集まった人たちから送られた旭日旗やのぼり旗など。70年以上経った今も色あせることない状態に、ナミさんがいかに大切にしてきたかが伝わってくる。
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支那事変から復員後、タクシー運転手として一家を支えていた清さんの元に召集令状が届いたのは1943年。長男と征二さん、身重の妻を残し、再び戦地へと送られることになった。まだ幼かった征二さんに当時の記憶はなく、在りし日の面影を知る術は最後の一枚となった出征前の集合写真のみだ。
フィリピンのルソン島で戦死したとの通知が届いたのは、終戦後しばらく経ってから。大黒柱を失った一家は、福島県にあるナミさんの実家に身を寄せることになった。道中で目にしたのは、乗り換えで下車した上野駅の地下道にあふれる戦災孤児や、車内でヤミ米の運搬を取り締まる警察官の姿。幼心にも強烈な印象が残る光景だった。
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「女手ひとつで男3兄弟を育てるのは大変なこと。そのバイタリティがすごいし、本当に強い人だったと思う」
戦争について息子たちにほとんど語ることはなかったナミさんから、ひとつだけ聞いたエピソードがある。甲府63部隊に配属される夫を沼津駅まで付き添った際、清さんから別れ際にかけられた言葉だ。「子どもたちを頼む」。最後に残したその言葉こそ、終戦後の混乱期を乗り越え、92歳まで力強く生き抜いた原動力だったのかもしれない。
本コーナーでは小田原市・足柄下郡に住む戦争体験者の声を募集しています。体験した地域は問いません。情報は小田原・箱根・湯河原・真鶴編集室【電話】0465・35・3980へ。