中区・西区・南区 コラム
公開日:2018.05.31
本牧 気まぐれ歴史散歩 【12】
かつて横浜は本牧の一部地域に過ぎなかった...
本牧とはどこからどこまでか?
これは「本牧」をどう定義するかによって範囲が異なると思いますが、今回は古文書の中で本牧と呼ばれていた地域についてご紹介します。
本牧という地名は、永正9(1512)年に伊勢宗瑞(北条早雲のこと)親子から平子(たいらこ)氏へ送られた制札という文書の写しにある「本目四ケ村」という文字で初めて確認できます。「モク」という音に「目」という字があてられていますが、意味としては本牧その他(根岸・石川・横濱)計4つの村と考えられており、5百年くらい前には、本牧が平子氏が治めていた地域を代表する場所であったことがうかがえます。
また、2百年くらい前に幕府が調査し、編纂した新編武蔵風土記稿という文書では、現在の中区・西区・南区・磯子区のほぼ全域を本牧領と呼び、本牧領にある36の村の様子を詳細に記しています。横濱村も本牧領の中の1つの村として紹介されています。
幕末・維新期までの数百年間は、幕府も地域の人々も、横濱村をはじめ、現在の中区・西区・南区・磯子区にまでおよぶ地域、掲載した伊能日本実測小図でも確認できる江戸内湾に突き出た半島部分全体を「本牧」として捉えていたようです。
次回は『生麦事件と本牧』についてのお話です。もしかすると、皆さんのお宅の前の道や公園などは、生麦事件をきっかけに造られたものかも知れない、というお話です。
(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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