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本牧 気まぐれ歴史散歩 79 『疎開道路』 戦争の記憶

公開:2024年5月23日

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本牧の疎開道路 現在のバス通り
本牧の疎開道路 現在のバス通り

 疎開道路とは、日本各地にある道路で、空襲による建物の延焼を止める防火帯として敷設された道路のことです。疎開といっても一時的に避難するのではなく、強制疎開、すなわち道路敷設のために代替地も補償もなく、軍に敷地を明け渡さなければならないもので

した。昭和19年(1944年)本牧にも疎開道路が敷設されました。道路拡幅のために土地を削られ、道をまっすぐにするために多くの人が移転させられ、家屋が取り壊されました。

 長距離飛行が可能で高度1万mでも安定して大量の爆弾を投下できるB29爆撃機で日本列島が空襲を受けるようになったのは昭和19年(1944年)6月からです。当初は中国から北九州への空襲でしたが、昭和19年7月にサイパンが、昭和20年(1945年)3月に硫黄島が陥落すると、B29による空襲は本州各地でも頻繁となり、軍需工場を破壊する爆弾や、町を焼き尽くす焼夷弾が投下されました。昭和20年5月29日には横浜大空襲により、本牧から鶴見までの横浜市沿岸部の広域が焼き尽くされました。本牧の疎開道路周辺を歩いていると、どこまでが焼き尽くされたのかは、今もおおよそがわかります。

 戦争が原因で、さまざまな形で犠牲になるのは戦争を望んでいない庶民です。横浜大空襲から80年近く経つ現在においても、世界中でその構図が変わらないのが残念です。

 次回は埋め立て前の海岸線を歩いていこうと思います。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)

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