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モノづくりのココロ 海外に 将来に 株式会社 大和ケミカル
起業とその後
昭和41年高知県の工業高校を卒業した中村幹夫氏は、内陸工業団地にある自動車部品製造会社に就職。技術部で六年間のサラリーマン時代を過ごした。
同じ職場で生涯最高の親友と出会った。2人は、周囲の反対を押し切り、共同経営の道を選び24歳で独立。昭和48年のことである。物作りの技術は二人共に持っており仕事は出来たが、資金繰りを含め、経営に関してはまるで無知。
加えて第1次、2次オイルショック。一つの即席ラーメンを2人で食べ、子どものミルク代にも困るほどだった。しかし、2人は、決して後悔せず、楽しく頑張った。相棒が経営理念を作り、“こんな会社にしよう”と将来を夢見ていた。
突然、相棒が
昭和51年11月、相棒が突然、交通事故で帰らぬ人に。廃業を考えたが、彼の親族に「2人の夢を実現してくれ」と言われ、「自分も一緒に死んだ気になり、頑張る」と継続を決断した。そして「その後の経営は、創業当時よりも厳しく、バランスシート上では、倒産してない事が不思議と言われ、今まで生きて来られた事が奇跡」と中村氏は振り返る。
中村氏38歳頃から、ようやく事業が軌道に乗り始めた。「素晴らしい方々の御支援を頂いた。一生ご恩を忘れることはできない」と中村氏は話す。創業40年を超え、現在は工業用・医療用のゴム、プラスチック製品の製造が主な事業内容だ。
創業時に亡き友が作った経営理念は社訓に、社歌に生き、今でも毎日の朝礼で全社員が唱和をしているという。
海外への進出
海外への進出は、平成11年。中村氏は「日本人の勤勉さ、技術力の強さで海外、特に東南アジアに負けてたまるか、日本で勝負してやる」を公言していた。
そんな折、中村氏はある先輩から「これからボーダーレスな国際競争の中でお前は『井の中の蛙』だ」と叱咤激励され、強引に彼のタイ工場に連れて行かれた。そこで目から鱗が落ちるショックを受け、その場で進出を決断。その年の10月には、第1工場(YCT)での生産をスタートさせた。YCTは、日本への輸入が目的で設立、平成17年に設立した第2工場(YPC)は、タイ国内の日系企業向けが目的の工場。
輸出入に課せられる税金の優位性と為替のリスクヘッジを考慮した海外2工場体制である。
「海外進出、今回のタイ洪水被害を逃れた事に付いても、先見の明があったといわれますが、良い先輩に恵まれたことと、運が良かっただけのことです」と中村氏は言う。
今後について
中村社長は来期第41期から、長男・英寛氏に代表権を譲る予定だという。
すでに2年ほど前から、経営に参画している。
「創業の経営理念を始め、お客様を大切に、そして何よりも社員との信頼関係を大事にする社風を引き継いでくれている」と安心の様子。
昨年、亡き友人の墓参に息子と2人で新潟に行き、事業継承の報告をした。
また、今、タイの2工場を統括している次男・健二氏に内外の3工場を管理させる方向で進めている。
「息子たちは、目指す理念は同じでも、経営の手段、手法は、大分違います。時代背景が大きく変化しており過去の成功手法が今でも全て通用するとは限りません。私自身は今後は子どもたちの成長を見守りながら、経営理念にもある『社会に貢献する事の出来る会社』の実現に向けて活動するつもりです」と語った。
中村社長は現在、厚木経営研究会会長、厚木商工会議所副会頭、県央経営者会副会長を務め、県央地域の経済活性化を図る活動に熱心。真面目な人柄には定評がある。家族も社員も大切にする実に明るく元気な方だ。
タイの2工場
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4月19日