阿部志郎の日々雑感 第6回 ボランティアとは【1】
ボランティアについて話をします。
戦争が終わった翌々年の昭和22年9月、カサリーン台風という大型の台風が関東を襲いました。一番被害を受けたのが東京。下町が水に浸かり、約2000人が亡くなってしまうほどの大災害でした。その時学生だった私は、いくつかの大学から人を集め、20数人の救援隊を作り、テントや紙芝居を担いで現地に急行。災害が起きて3日目、我々としては、早く動き出せたと思っていました。しかし、現地の救援本部に顔を出すと、そこに座っているおじさんたちの反応が冷たいものでした。「とりあえず座りなさい」。この町内で会長をしているというおじさんが話をし始めました。「この地区にジェロさんという有名な修道士がいる。その人が冠水した晩、浅草の闇市でマッチとろうそくを買ってきて、それをボートに乗せ建物の上に避難している人たちに配って回った。災難に遭った人々が求めるのは、食べ物、飲み水、着る物、避難場所。理屈で言えば、一本のろうそくを配ってもなんの役にも立たない。ところが今、そのろうそくの光に復興する力を与えられている」。それ以上は言いませんでした。君たちは今頃来てどうするんだ、ということを言いたかったのでしょう。これは、私にとって生涯かけての教訓になっています。確かに、食料や衣服が必要かもしれない。しかし、それ以上に必要なのが光、希望なのです。
その時の私は、学生でしたがボランティアという言葉を知りませんでした。ボランティアという言葉を聞いたのはその翌年。あるハンセン病の療養所に行ったとき、一人の看護婦との出会いがこの道に入るきっかけとなっています。私が尊敬する神父、岩下壮一が最期を過ごした場所を一目見たいと御殿場にある療養所を訪れました。そこで診療室の案内をしてくれた人が「私はボランティアです」と言ったのですが、なんのことかわかりませんでした。「それはなんですか」と聞いたところ、聖心女子大の教授であるその人は2カ月の間、受付に座り手紙の受け取り・返事をしたり、皆さんのような人が来れば案内をしたりしているといいました。すべて無報酬のボランティアです。そこで初めて知りました。
その人に療養所を案内してもらっていると、一人の看護婦と患者が目に留まりました。看護婦が鼻も耳もただれ落ちている患者の腕に包帯を巻いていたのですが、その実に穏やかな表情とテキパキとした動作にコントラストを感じました。その時の私を含め、学生はみな、戦後の平和のためには世界変革が必要だと考えていました。マルクスの影響もあったでしょう。社会を変えれば人間が良くなると。宮沢賢治もそう言い、私もそう思っていました。しかし、その姿を見た時、「いや違う。いと小さき病者が幸せになることなくして、社会の幸福はない」と考えが変わったのです。名前も知らない看護婦を見たほんの15秒間で、この人についていこうと決心しました。
この出来事のあとすぐにボランティアを始めました。小学校を出てすぐに工場で働く勤労少年たちに勉強を教えたり、遊んだりするものです。子どもたちはみな先生、先生と呼んでくれました。その時交通費をもらい、お茶なども出してくれました。その後、私はニューヨークに留学をします。スラムの施設で同じようなボランティアを始めたのですが、様子が全く違いました。その施設の上司のような人に来週試験なので休ませてもらいます、と言ったところ「あなたは毎週来ると約束している。守ってください」と許してもらえなかったのです。驚きました。交通費も食事代もすべて自腹。なのに、試験のために休んではいけない。「終わったら週に2回行きますので」とやっと勘弁してもらいました。しかし、これこそがボランティアであると思い知りました。60年前、こちらに戻ってきました。この頃、日本ではボランティアという言葉は通じませんでした。高齢者施設に行っても「おせっかいだ」などと陰口を言われてしまうほど。
私はその時3つの原則を設けました。主体性、連体制、無償。それがボランティアであると。しかし、そのうち有償ボランティアというものが現われました。あまり認めたくなかったのですが、神戸の灘生協(現在のコープ神戸)のボランティア大会を傍聴した時、考えが変わりました。ボランティアの賃金を値上げするという話が出た時「お金がほしくてやっているわけではない」「ボランティア精神を大事にしよう」と人々から多くの声が上がったのを見ました。労働の対価としてもらうのではボランティアではありませんが、交通費のような実費弁償でボランティア精神があればそれはボランティアである、と考えるようになったのです。
(第7回に続く)
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