戦争の記憶を、人・もの・場所を介して綴るシリーズ。17回目は横浜市鶴見区から南足柄市の最乗寺に学童疎開し、終戦後小田原に居を構えた岡田光雄さん(79)。兄と2人、見知らぬ土地で暮らした2年間と戦後を語る。
鶴見の生家そばにあった捕虜収容所。毎朝7時、憲兵に連れられ、日本軍の軍艦製造作業に出かける英米人の捕虜の姿を、連れ立って見に行った。日常に、戦争があった。
1943(昭和18)年3月。当時8歳、学徒動員命令により2歳違いの兄と共に大雄山への学童疎開が始まる。育ちざかりの少年を苦しめたのは、決して満たされることのなかった食欲だ。食事はさつま芋の葉やふすま。階下に寄宿する兵士たちが炊事で立ち上らせる匂いに「鼻をひくひくさせたりね」。朝のラジオ体操に並ぶ子どもたちの、骨と皮ばかりのような体つきが今でも記憶に残る。
疎開当時は肥えていたシラミも、どんどん薄くなっていく食糧事情。あまりのひもじさに、食堂の木製冷蔵庫から夜中に盗み食いする級友が続出した。「先生も子どものしていることは分かってたんだよね」。自分から申し出れば許す、という言葉を信じ「ぶん殴られたよ」と、ほろ苦く笑った。はるばる関内から叔母が差し入れてくれるコロッケがたまのご馳走だった。
※※
45年3月、級友たちと別れ一足先に鶴見へ引き上げた。目にしたのは、自宅周辺の数軒を残すのみの焼け野原。ほどなく迎えた8月15日。非常に暑い日だったという。雑音が混じる玉音放送に、道のそこらじゅうで大人たちがつっぷして泣いていた。
この年に父が、翌年に姉、さらに兄と続けて家族を喪った。女手一つで家計を支える母の負担を減らそうと、韓国人男性と結婚した叔母の元へ住み込み、家業を手伝いながら学校へ通った。ふかしたさつま芋や、拾った煙草を巻きなおして売るなど、闇市で”商売”もした。父や兄姉の分まで「なんとしても生きなくては」。その想いが根底にあったという。
高校卒業後、地元で10年働き、縁あって小田原へ。登志子さんと家庭を築き、裸一貫でがむしゃらに働いた。2年間暮らした大雄山は、その後幾度も訪れている。
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