終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第23回は1893(明治26)年創業の老舗料理店「だるま」の会長・廣澤季(すえ)さん(89)。
役所が許可した店のみが営業できた戦時下。だるま料理店は役所が配布する外食券(食事券)を持った人に食事を提供する「外食券
食堂」として営業していた。だが、同店の代名詞ともいえる天丼や刺し身は消え、メニューはどんぶりに入れた雑炊のみ。それでも小田原出身の小説家・川崎長太郎さんは、毎日のように通い続けていた。通常の営業ができない中、客間は被災で家を失った人のため、避難先として提供された。
戦争が激化するにつれ、一人またひとりと戦地に駆り出されていく板前。いつしか店は女性のみで切り盛りするようになっていた。
落ちて来た焼夷弾を振り払うため、もんぺ姿の腰には30〜40cmほどの竹べらを常に下げていた。空襲警報が鳴ると食堂下に掘った防空壕に逃げ込む。その時決まって持っていったのは、宝物のミシン。「大きくて邪魔になるけど、どうしても」と、手離すことはなかった。
小田原高等女学校(旧小田原城内高校)から横浜の洋裁専門学校に進学。午前中の授業が終わると、午後は毎日勤労奉仕として丸襟に紺色の縁取りが特徴の、海軍のシャツを縫った。しかし、「焼夷弾が電車を狙う恐れもある」という父の助言で、志し半ばで洋裁学校を中途退学。小田原で役所の税務課や警察署長の秘書などの仕事についた。
終戦後、酒匂に滞在する進駐軍が大挙して押しかけるようになると、食堂はさながらビアホールと化した。女学校時代に1年間勉強した英語を駆使し、カウンター越しにアメリカ兵を接客。「兵隊さんは意外と優しかった」と話すが、「戦争に良い思い出なんてひとつもない」と当時を振り返る。
「あれだけ悲しい思いをした。だからこそ、今があることに感謝」。戦火をくぐり抜けた建物と暖簾、引き継がれる味をこれからも守り続けていく。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
神奈川県警察官友の会社会全体の犯罪防止や治安維持に寄与し、民間の力を合わせて警察官を支援 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
お堀端のボリューミーなステーキ店【NEW OPEN!!】柔らかジューシーな特選&絶品ビーフを城下町小田原で堪能! |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<PR>
小田原・箱根・湯河原・真鶴版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|