終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第32回は、中郡国府村寺坂(現大磯町)で空襲を体験した野地芳男さん(80)。
終戦間近の1945年7月16日午後11時30分。相模湾から来襲した、100機を越える米軍の爆撃機B29により、45万本の焼夷弾が平塚市街に落とされた。死者328人、焼失7678戸。壊滅的な被害をもたらした平塚大空襲の影響は、当時小学校5年生だった野地さんが住んでいた国府村寺坂(現大磯町寺坂)にまで及んだ。
「寺坂は大丈夫。米軍が上陸しても日本の兵隊が守ってくれる」。山間部にある小さな農村が攻撃の対象にはならないだろうと、村民の誰もが信じこんでいた。しかし、その思いを打ち砕くかのように、集落に焼夷弾が落下。家屋をはじめ、牛舎や物置小屋などが次々に焼けた。この様子を野地さんは、家族と逃げ込んだ戦車壕からせんべい布団に身を包んで見守った。とはいえ、隠れている壕の上では日本軍が貯蔵していた弾丸や小銃弾が敵機に狙われ、そこから燃え広がったいくつもの弾片が暗闇のなか勢いよく飛んでくるなど、決して安全な状況とは言えなかった。「人の泣き叫ぶ声、竹の割れる音、周囲は昼間のような明るさで、頭を上げるのも怖かった」と恐怖の記憶を語る。
空襲がようやく収まりかけた翌朝。野地さんが壕の外に出ると、そこには地獄絵図と化した風景が広がっていた。田畑や庭には焼夷弾で穴が開き、近所の八坂神社が燃え、近くに住む小学2年生の児童は焼夷弾の直撃により命を落とした。
野地さんは絶句し、大人たちはそんな様子を子どもたちに見せまいと、大声で「近づくな」と叫んでいた。恐る恐るのぞくと、目の前で農家20軒が炎に包まれていた。「点々と煙が上がり、異臭を放っていた。初めて見た戦災だった」と、今でもその光景は脳裏に焼きついている。
今年は戦後70年という節目の年。野地さんは「故郷の歴史を形にしておかないと忘れられてしまう」と、入会して20年になる歴史同志会での経験を糧とし、記憶を頼りに『大磯町寺坂の戦災』と題した郷土資料を作成。戦争の悲惨さを伝えるべく講演を行っている。
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