終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第33回は、中郡南秦野村(現・秦野市今泉)で空襲を体験した小泉政治さん(78)。
終戦間近の1945年、小泉さんは南秦野国民学校(現・南小学校)2年生だった。当時、学校には日本軍が駐留。兵隊らが校庭で訓練を重ね、校舎は宿舎として利用されていた。「校庭が異様な雰囲気だった。僕らはまだ小さかったから通常の授業を受けていたことを覚えている」と振り返る。
食糧難で放課後になると近所の裏山に出かけ、どんぐりの実を集めることが日課となっていた。「兵隊さんのために調達したこともあった。大人、子ども関係なく、皆がそれぞれに与えられた役割を果たしていた」
同年2月頃。小泉さんは友だちと二人で白笹稲荷神社近くの自宅に向かっていた時、富士山を背景に梅林が広がるのどかな風景の片隅からエンジン音が。振り返ると、にわかに接近する敵の小型飛行機から機銃掃射に見舞われた。小泉さんらは防災頭巾をかぶり必死の思いで畑の方に逃げ、身を伏せて難を逃れたが、上空から降ってきた銃弾は次々に目の前の竹やぶへと落ちていった。
「飛行機は日本軍が駐留する小学校へと向かったのだろう。目の前で『バリバリバリ』と音を立てて、真っ二つに竹が割れる光景は今考えても恐ろしい」。帰宅後も空襲警報が鳴るたびに灯火管制し、自宅近くの防空壕に身を潜ませた。
その数日後、近所に住む2つ上の小学生が悪ふざけをして爆撃機B29に向けて竹弓を引いていた所、敵機に撃たれて命を落とした。「敵軍は容赦しなかった。日本軍と判断すればもちろんだが、子どもにも攻撃の手を緩めないなんて。今では信じられない」と声を震わせた。
今も時折、脳裏に浮かぶ光景がある。同年7月16日、300人以上の死者を出し、7600戸以上が焼失した平塚大空襲だ。弘法山の片側が真っ赤に燃え上がっていた。赤い海のように染まった光景を小泉さんは自宅近くの小高い畑から見つめた。この惨状に「山が紅葉したかのよう。自分の見慣れた場所がまさかあんな光景になるとは。戦争はもう二度とあってはならない」と語った。
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