終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第8回は日中戦争に旧大日本帝国陸軍の兵士として出征した中條市平さん。2年半にわたり戦地の中国で過酷な日々を送った。
日中戦争の開戦から2カ月後の1937年9月、当時22歳だった中條さんのもとに一枚の召集令状が届く。新宿の飲食店で働いていた平穏な生活から一転、旧大日本帝国陸軍の歩兵49連隊に配属され、いやおうなしに戦地へと駆り出されることになった。
1カ月の訓練を経て、軍用列車で神戸へ。行先も告げられぬまま船に乗せられ、長い航海の末、旧海軍の艦砲射撃による援護を受けながらたどり着いた地は上海だった。
そこから、さらに連隊がめざしたのは上海の南西に位置する南昌(なんしょう)。銃を担ぎ、荷物を積んだ馬を引きながら、約1000Kmにおよぶ揚子江沿いのルートをひたすらに歩いた。「行軍中、道に横たわる敵の遺体をたくさん目にしたけれど、どれも腹がふくれ、下半身から黒い液体が流れ出ていた」と、戦争の生々しい記憶を語る。
宿泊はテント。夜間は1時間交代で見張りの番にあたった。ある晩、中條さんはゴソゴソという物音で目を覚ます。外に出てみると、そこには行軍の苦しさに耐え兼ねて、今まさに短刀で腹を切ろうとする仲間の姿があった。「そんなことをしたら、戦死にもならないと説得して止めた。その後、彼は日本へ送り返されていった」と、厳しい表情で当時を振り返る。
戦地では壮絶な体験の連続だった。暗くて気が付かなかったが、前の晩に米を炊くために水を汲んだ池には敵の遺体が数体浮いていたこと。マラリアに罹患し、寒気と高熱に数日間苦しんだこと。山の上から敵に狙撃され、すぐ隣の仲間が撃たれたこともあった。
約2年半の任務を終えて無事に帰還。太平洋戦争ではこれまでの経験から、軍事教練の指導者として若者に匍匐(ほふく)前進や体操を教えていた。
29歳で迎えた終戦。戦争一色の20代を過ごした中條さんは、「負けたことは悔しかったけれど、それ以上にホッとした。戦争は苦しいだけで良いことなんて何もない」。
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