終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第29回は大日本化学工業(株)(現・味の素)に学徒動員で派遣されていた鈴木昇太郎さん(85)。
相洋中学校に通っていた1944年の夏、学徒動員の指令が下り、大日本化学工業川崎工場へ派遣された。当時は一般企業も軍需産業への転換を強いられ、食品メーカーの同社でも軍用機の翼の原料となるアルミナなどを生産していた。鈴木さんらはこの作業に携わり、寮に住み込みで働いた。「高粱(こうりゃん)(トウモロコシ)やサツマイモを食べて飢えを凌いでいたが、中には飢えで病気になり故郷に帰らされた人もいた」と過酷な日々を振り返る。
翌45年4月15日、死者約千人、負傷者1万5千人の被害をもたらした川崎大空襲に見舞われた。軍需品を製作していた工場も敵機に狙われ、辺り一面は火の海に。鈴木さんは仲間とともに燃え盛る火の手から必死に逃げ、父母の待つ小田原を目指した。「道中の鶴見で渡された水が唯一の救いだった。精神力だけで先を急いだ」
一心不乱に駆け、横浜駅で飛び乗った罹災者専用電車は、難を逃れた人々でごった返し、焼けた煤の臭いが蔓延していた。小田原に命からがらたどり着いたのはその日の深夜。両親が両手を広げ、迎えてくれた。「すぐに風呂に入り、泥のように眠った。翌朝、目を覚まし空を見上げた時ようやく生きた心地がした」
しかし、胸をなで下ろしたのも束の間。今度は寒川町の相模海軍工廠へ派遣が伝えられた。武器製造工場とあって敵機の標的に。機銃掃射や小型爆弾に襲われる死と隣り合わせの過酷な状況下で勤労に励んでいた。「毎日家に帰れることが唯一の励みだった」と現実離れした当時を振り返る。
戦況が激しくなるにつれ、公共建造物を空襲から守るため、建物疎開の体制が敷かれた。近くに税務署があった鈴木さんの家もその対象に。否応なしに住まいを奪われた一家は父の実家のある厚木に移り、再び小田原に戻れたのは終戦から3カ月後だった。
戦後、教員として勤めあげた鈴木さんは「この平和な世の中は過去に300万人以上の犠牲者がいたということを忘れてはいけない」と教え子に伝えてきた。
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