開幕までいよいよ残り1年を切った東京2020オリンピック・パラリンピック――。7年前にアルゼンチンで行われたIOC総会での招致プレゼンテーションで、滝川クリステルさんが発言した「おもてなし」は、日本人のホスピタリティの精神を表す言葉として大きな話題となった。
前回の東京オリンピック(1964年)でも、その精神は同じ。世界中から迎える選手や観客が混乱しないよう、さまざまな対策が講じられていた。そのひとつが、「ピクトグラム」。いわゆる絵文字のことで、この考案に携わった一人が、小田原高校出身の村越愛策(あいさく)さん(87)だ。
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アジアでのオリンピック開催は、夏冬を通じて史上初。94の国と地域から出場する世界的なスポーツの祭典とあって、大会期間中には多くの外国人が来日することが見込まれていた。
ところが、当時国内にあった案内板や標識の多くは、日本語と英語による表示のみ。「これでは世界のお客様を迎えることはできない」と、当時のオリンピック組織委員会によりデザインに関する専門チームが設置された。
工業デザイナーとして10年目を迎えようとしていた村越さんもこの一員として参加。空の玄関口である羽田空港の案内看板改良を任され、朝から晩までデザインに没頭する日々が始まった。
「人間にとって一番大事でしょ」と、真っ先に取り組んだのはトイレ。どこの国の人が見ても、すぐにそれと分かることが考案するうえでの最重要事項だ。そのほか、禁煙や飛行機の搭乗口、タクシー乗り場など、1年弱で約30種のピクトグラムを製作。外国人の快適な空港の利用に、大きく貢献した。
村越さんを含めて12人のデザイナーが係わった大仕事。しかし大会後、組織委員会から依頼されたのは作品の著作権放棄だった。
その真意は、ピクトグラムは公共デザインとして、あるいは世界共通の視覚言語として受け継がれていくべきものであるということ。これに異議を唱えるものはなく、その結果、村越さんらが生み出した成果は時代の変遷とともにリニューアルを繰り返しながら、半世紀以上経った今もなお世界中の人々の生活に深く浸透している。
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村越さんは1931年満州生まれ。敗戦後の46年夏に日本へ引き揚げ、父の出身地である小田原に移り住んだ。
旧制神奈川県第二中学(現・小田原高校)を経て、工業デザインを学ぶべく千葉大学工学部へ進学。知る人ぞ知る珍しい分野だったが、異国の地で育った境遇が少なからず進路に影響を与えた。「幼少の頃は周囲に日本人が少なく、言葉も分からない。だからこそ、言語の壁を越えた絵に興味があったのでしょう」
87歳になった今も現役。原宿にオフィスを構える(株)アイ・デザインの取締役会長として、空港や鉄道などの工業デザインを通じて社会貢献を続ける。人呼んで「ピクトの神様」。だが、物事を相手に完璧に伝えるには、やはり文字や言葉に勝るものはないともいう。「本当にグローバルになるには、国籍や言語を超えたコミュニケーションを大切にしなければなりませんね」
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