前日の嵐のような大雨が、まるでうそのように雲ひとつない抜けるような青い空、目の染みる神宮の緑、鮮やかなアンツーカーのレンガ色―7万5百人を収容する東京・千駄ヶ谷の国立競技場は大観衆で埋まり、メーンポールにオリンピック旗を挟んで、左に日章旗、右に東京都旗が並ぶ。
1964年(昭和39年)10月10日―1千万人の大都市・東京が装いも新たにした国立競技場で、この日、アジアで初めての”世紀のオリンピック”開会式が整然と、かつ華麗に進行した。
午後2時、「オリンピック・マーチ」に乗って各国選手団の入場が始まった。参加93カ国と地域、5541人、うち日本選手団354人は史上最大の規模である。この第18回大会はオリンピック史上初めて全世界にテレビ中継される”科学の大会”ともいわれ、まさに”世界は一つ”に結ばれた瞬間でもあった。
昭和20年8月の終戦から19年目、戦後復興と銘打って、ここに初めての世界的なスポーツの祭典開催が実現したのである。
私は新聞記者として開会式の模様を書くためにメーンスタジアム中央の記者席にいた。各新聞社がベテラン記者を開、閉会式担当にする中で、私は入社5年目の駆け出し記者で、かなり緊張、興奮していたことを思い出す。プレス席も選手団と同じように、全世界からの特派員が70%を占めていたのだ。
世界のジャーナリストたちが会場やプレスセンターで大会の様子ばかりか、東京や日本を紹介する記事を打電するのだ。この中に自分もいることを思うと、新たな自覚と国際観が生まれたような気がする。その後、私自身は東京を含めて8回のオリンピックを経験したが、「世界の中での日本の状態」を常に意識するようになった。
大会では、日本選手の金メダル第1号の重量挙げ三宅義信、柔道無差別級の神永昭夫がヘーシンクに敗退、陸上で10秒0のヘイズ、観衆が一番熱くなったマラソン円谷幸吉、バレーボール”東洋の魔女”の金メダルなど数々の名勝負を取材した。日本選手団は男子体操、レスリングの活躍もあり、金16、銀5、銅8個のメダルを獲得、アメリカ、ソ連(現ロシア)に次いで第3位に躍進、一躍世界のトップクラスに躍り出たのである。
そして、閉会式―整然という日本流の常識を破る”事件”―日本の旗手・福井誠が各国選手に肩車されて場内を半周するハプニングが起きたのだ。目の前で”平和”を実感した瞬間でもあった。
昭和35年に開催が決定して、4年間で新幹線や高速道路の工事費などを含めて1兆8百億円もの資金をかけた五輪成果は、その数年後には確かに世界の”経済大国”といわれるまでに急成長を成し遂げた。初期の目的でもあった「戦後復興」の役目は果たしたのだ。そして、もっと大きかったのは、世界の島国だった日本国民の多くに、世界の仲間入りをし、平和を望む世界観が植えつけられたことではないだろうか。
あれから56年後の2020年に再び東京オリンピックが開催される。5年後の競技の中心になるだろう小、中、高校生たちにとって夢ではなく、大きな目標が出来たのである。目標になる代表的な3人をあげてみる。
男子体操の個人総合で世界選手権5連覇、ロンドン五輪金メダルの内村航平、テニスの全米オープン準優勝で世界ランク5位の錦織圭、フィギュアのソチ五輪と世界選手権優勝の羽生結弦である。着地と空中姿勢で定評の内村は「まだ失敗することもあるので、素直に喜べない。課題はある」、錦織は「ピークはまだ先」、羽生は「優勝したら、まだその先への課題克服がある」と、いずれも謙虚で、次のオリンピックを目指すだろう。
「これを機に、名実ともに世界の一流国の仲間入りを」というのが国の狙いで、「大都市・東京の再整備」が東京都の狙いだ。しかし、一番大事なのは、次代を背負う10代の少年少女たちに恰好な目標ができたことで、それに向かって努力すれば、スポーツばかりでなく、政治、経済、文化全体のレベルアップにもつながる期待感が大きくなる。オリンピック開催は単なるスポーツの祭典ではないことを再認識するいい機会でもある。
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