大正末期から昭和の北山田から 第3回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
北山田の今昔(下)
夜は暗い電球の下での宿題です。家には決められた電球以外にコンセントで使うと、電力会社の社員が来て没収または送電中止させられたので、電球については厳しかった。警察より電力会社の社員は一般家庭からは恐れられていた。
学校に使う鞄は、たいがい近所の先輩のお下がりをもらい、大事に使い、また後輩に譲った。ボロボロになるまで使われていた。教科書も親は一年先輩の家に行き、貰い受け、足りない物だけ買った。親はいかに出費を少なくするか、大変でした。子供も親の苦労を見ているので、大事に使った。
終戦前は学校にも軍隊が入り、勉強するところがないので、お寺、お宮、公民館などに別れて勉強をした。勉強は先生が兵隊に行かれて自習が多かったが、上級生がよく面倒を見ていた。天気の良い日は、出征兵士の家の農作業の手伝いが頻繁に行われたが、空襲警報が度重なり、終戦間際は勉強らしい勉強はできなかった。
防空壕の中に教科書や箪笥を入れたが、湿気が多く、箪笥は剥がれて壊れてしまい、中の衣類も湿気でボロボロになってしまった。もちろん教科書も傷んでしまった。
市内の中学生は先生に引率されて農作業の手伝いに、よく農家に一週間泊まりがけで行き、勤労奉仕に汗を流していた。食糧難のために、農家に泊まれば食事は心配ないと好評でした。
帰りのお土産に食料を上げたら、家族からていねいな手紙をいただいたが、その生徒は、少年兵を志願して沖縄で戦死したと、戦後、級友から聞きました。
確か十七歳だったと思う。終戦が半年早かったら……、残念でした。
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