大正末期〜昭和の北山田から 第29回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
小学校【2】
鎮守様の祭礼には、部落出身の児童だけ学校で参加しました。神社に整列し、式典が終わるとお供え物の菓子をいただきますが、その部落の生徒は授業が休みになります。お供え物は紅白の丸い和菓子でした。
四・五年になる頃から奉仕活動が多くなりました。応召家庭の草むしり、麦踏みなどです。六年になると大戦に突入、俄然、教育は様変わりしました。
連戦連勝、神国日本は絶対負けぬ国と教育され、信じておりました。学校前の田圃で暗渠排水工事が行われ、児童も動員されました。資材が無いので溝の中に松葉を敷き詰め、その上に竹の束を置き、その上にまた松葉を厚く敷いて踏み固め、埋め戻しの土を踏み固めるのが児童の仕事でした。寒い日は大変でした。長靴を持っている者はほとんどなく素足で、手袋は無く、満州の兵隊さんを思へばと、励まされました。
教科書は新学期が始まっても新しい本はなく、上級生の古本で勉強したが、古本があれば良い方で、隣と二人で共用した者が多かった。鉛筆も貴重品で短くなって握れない鉛筆は竹の節穴に通して使い、帳面もなるべく小さい字で書き、終わったら無駄に使わなかったかと先生に、また親にも見てもらい、やっと新しい帳面が買えた。書道(書き方)の時間には半紙はもちろん無く、新聞紙を使用したが、当時は新聞を購読している家はあまりなく、貴重な教材であった。
学校鞄の補充はなく、鞄を背負っている子も使い古しの修理した鞄で、大半は風呂敷包みで通学、履き物はズック靴を履いている子はまれであり、ほとんど藁草履であった。学校帰りの途中で、草履が切れて素足で冬の霜解けの畦道を泣きながら帰ったのを思い出す。
家に帰ると野菜の出荷の手伝い、脱穀、水汲み、風呂焚きと、必ず仕事が待っていた。帰りが遅くなると父親から叱られ、鞄を投げ出し夢中で働いた。宿題や自習をする時、風呂に接近しずぎて頭の毛を焼いてしまったことがたびたびあった。夜自習するにも、電気は節約で、二燭の電球ではうす暗く、秋の満月に姉が「月夜の方がよく見えるよ」、と言ったことが思い出される。
今さらながら時代の流れを感じ、また訪れるであろう貧困、物資不足に心しなければと、きれいに澄んだ夜空を懐かしく思い出している。
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