大正末期〜昭和の北山田から 第34回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
助教訓練【2】
助教訓練を終えて帰る時、近所の農家へ預けて隠し持っていたお米で、飯ごう一杯の醤油飯を炊いて貰い帰路に着く。綱島駅を降り、徒歩で堤防を歩き、吉田橋まできたので、炊いてもらった飯にしようと、空腹なため土手に銃を投げ出した。三人で久しぶりに食べるお米のご飯を夢中で食べていると、「コラッ」と大声、誰かと振り返ると、校長が自転車を降りて髪をふるわしてカンカンになって怒っている。「しまった」、叉銃(さじゅう)してなかったのだ。
銃は決して寝かせてはならぬと訓練されている。銃には菊の紋章がついているので、粗末にあつかってはならぬのだった。食べかけの飯ごうをしまい、堤防の上でさんざんお小言を頂戴し、やっと許され学校に帰り、教頭に報告、暗くなってから帰路につく。
次の訓練日に学校に行ったら、同級生が、私たち助教訓練に行った者を除いて全員二等兵の襟章をつけていた。びっくりして聞いたところ、留守中、徴兵検査もしないまま、防衛召集令状がきて、都田小学校に入隊したとのこと。本土決戦に備え、戦闘要員として動員され、敵前上陸があった場合、非常呼集するまで自宅待機となり、即日除隊。それで学校にきたとのことであった。二十年四月、ずいぶんゆきづまったものだ。徴兵検査する間もなかったのだ。
がしかし、困ったことがおこった。クラスを二つに分け、二小隊の編成になっていた。ところが助教訓練に行った者は、防衛召集が来なかったので、襟章がなく、学校では号令をかける立場だったのですが、悲しいかな誰も言うことをきかない。困った指導員が、学校では学校の規律を守れと説得、ようやく訓練が開始された思い出があります。襟章の権威はその後何かにつけ続いた。(つづく)
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