大正末期〜昭和の北山田から 第38回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
照空隊と高射砲隊
今の山田小学校の近所に照空隊陣地があり、準工業地区に海軍倉庫があった。照空隊陣地構築によく青年団で奉仕にいった。道中坂を学校方面に五十メートル登った右側に、大きな防空壕があり、その中にトラックをいれ、後輪を浮かし動かぬようセットし、エンジンをかけて車輪で発電し、夜の守りをしていた。牛久保の原にもあり、よく兵隊が連絡に私宅の庭を通った。
高田の小学校近くに高射砲陣地があり、ずいぶん命拾いした。B29の夜間爆撃の時、あまりの低空のため撃った砲弾が耳元をかすめ、百メートル裏の竹藪で爆発、よくも無事だったと今でも思う。
空襲の最中に外に出ては危険なのだが、夜間爆撃の照明弾とサーチライト、曳光弾(えいこうだん)の交差がきれいなので、父と姉三人で、原の柿の木の根元で見ていたときのことだった。
よく陣地の兵隊がお酒の証明書をもらいにきた。その頃、父が町会の事務所をあずかっていたので、証明書の発行をまかされていた。祝いごと、壮行会などだったと思う。
照空隊の兵隊が戦後、二、三名地元にとどまった。
空襲【1】
最初に敵機を見たのは、警戒警報中にいきなり北山田の上の方から山すれすれの低空で、高田方面へグラマンが地上をはっていった時だ。いきなり目の前をものすごい爆音で駆けぬけたのには、私もどぎもをぬかれた。高田の高射砲をはずすためと、後でわかりました。
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