大正末期〜昭和の北山田から 第10回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
空襲【3】
北山田が焼夷弾で火の海になったのは、それから間もなくだった。
東山田の準工業地区が一部かかっているが、そこには海軍倉庫が幾棟かあった。陸軍の照空隊とともに並んであったため、攻撃目標になり、夜、山田富士の周辺の重代辺りから焼夷弾が落とされ、田圃も山も真っ赤に燃えあがってしまった。
空は照明弾が投下され、高射砲の炸裂、破片がバラバラ落ちて、電波妨害のアルミのテープもカサカサと落ちてくるのが、昼間のように見えた。私は鉄兜をかぶり、夢中で本家の方へ走ったら、もう本家の周りは火の海で、叔父さんが大声で「誰か来てくれ」と、どなっているのが真っ赤な中に影絵のように浮き出ていたが、落下物が多く立ちすくんでしまった。
すると、神無谷戸方面から、ものすごい火の手があがり、ついに農家に被害が出たらしく、待機していた警防団が手押しポンプを引いて神無坂を途中まで駆け上がって行った。今度は稲荷谷戸方面の住宅から火の手が上がり、坂の途中で迷っていたが応援の警防団が続々駆けつけてきた。地元の者は自分の家に落ちてくる焼夷弾を防ぐのが精一杯だった。ほとんどの家では、草屋根を突き抜け、床の間に、廊下に落ちたが、初期消火が早く助かった。働き盛りの人はいなく、女老人子供が多かった。
神無谷戸の農家はご主人は六二部隊(馬絹)に入隊されており、「山田方面が相当やられているな、家は大丈夫かなと、煙がよく見えたので心配だった」、と翌日全焼の一報が部隊に入り、整理に二、三日休暇で帰られて話された。
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