大正末期〜昭和の北山田から 第59回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
生活対策【2】
仕事は公団の土地の草刈り、仮移転の引っ越し、移転家屋の解体、植木の移植、墓地移転、造成地の伐採、造成工事など何でも請け負った。
当時、横浜市の港北ニュータウン事務所の所長をしておられた渡さんが、これからは重機の免許がないと営業に支障をきたすからと、重機免許取得を勧めてくれ、大変お世話になりました。
藤沢の重機研修所に二名づつ交替で通い、学科、実習と厳しい特訓を受け、十三名が免許取得できました。最初に研修所に通ったのは私と織茂君でしたが、現場ではブルドーザーは使っておりましたので、実技は自信を持っていきましたら、いきなり大型のバックホーでの実技であり、全然経験がないので、四苦八苦、指導員から怒鳴られ、棒で叩かれ、足で蹴られ、さんざんでした。
これも安全教育を徹底する指導員の恩情教育でした。実習以外は親切な方で感謝しておりますが、日により重機の機種が違い、それぞれ操作が異なり、苦労しました。免許を手にした時は「俺もオペレーターになれたんだ」と土木工事の励みになり、急速に仕事が増え、社内も活気が溢れておりました。
昭和五十六年、有限会社から株式会社に変わり、全員が株主になり、順調に発展しておりました。残念なことは、会社の一番中核の渡辺忠夫君が四十二歳で白血病で他界したことです。
彼は生真面目で、社員の面倒見がよく、洞察力に優れ、富士組の牽引車であった。仕事には妥協は許さない完璧主義で、ゴルフにもよく表れていた。納得するまで練習し合理的なプレーでいつも上位にいた。 =つづく
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